浮き彫りになった奇妙な構図

執筆者:白戸圭一2020年8月8日

 

 

 1990年7月17~19日の「平成2年度アフリカ大使会議」で、波多野敬雄国連大使(当時)がアフリカ開発会議(TICAD)の開催を提案し、小和田恆外務審議官(同)がこれに関心を示したことについては、本連載の2回目と3回目で詳述した。

 情報公開法に基づく開示請求によって筆者が入手した「平成2年度アフリカ大使会議討議概要」を読むと、この大使会議の主要議題は、(1)アフリカ諸国で始まった民主化への対応、(2)アパルトヘイト(人種隔離)政策廃絶に向けて動き始めた南アフリカ共和国(南ア)情勢──の2点だったことが分かる。

 波多野氏のTICAD開催の提案について深く話し合われた形跡はない。

「波多野さんの提案について考える余裕などなく、アパルトヘイト問題で頭がいっぱいでした」

 外務省中近東アフリカ局(当時)で南アを所管していたアフリカ第2課の神谷武課長(現・鹿島建設株式会社顧問)は、30年前の記憶を手繰り寄せながら当時を振り返った。

 だが、その後、事態は思わぬ方向に進んでいく。神谷氏が南ア情勢への日本政府としての対応を模索する中で、最終的に「波多野提案」が日の目を見ることになり、TICADが実現へと向かうのである。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。