灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(113)

執筆者:佐野美和2020年8月9日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 総裁公選で初めての信任を経て佐藤再々改造内閣を発足したが、野党の審議拒否が続き「黒い霧」のウミも出しきれていないと踏んだのか、年も押しせまった昭和41(1966)年12月27日に衆議院を解散した。

 この解散は「黒い霧解散」と呼ばれ、勝敗は党の命運を分けるものとなる。

 全国遊説となれば顔が売れている、参議院議員のあきの出番が当然期待される。

 派閥の長の藤山事務所からも依頼があり、この日はどこどこに行ってほしいなどと遊説のお願いをされる。

 しかしあきの体調不良は相当ひどくなっていた。

 部屋の奥にある議員にあてがわれている大きな事務机に顔をつけていることがある。普段は姿勢よく書類に目を通したり筆をとったりしているあきの、大きな異変だった。

「あき先生、だいぶ体が辛いようだね。遊説は難しいかな」

 見て見ぬふりをしながら心配する秘書たちをよそに、

「応援にはなるべく行きたいわ。顔を見せるだけでもいいから」

 と近郊への応援には無理してでも駆けつける段取りとなった。

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