古代から水害と闘い続けてきた「科学と共存」という2つの知恵
2020年8月11日

仁徳天皇が掘り豊臣秀吉が大阪城の堀に利用した「難波の堀江」(筆者撮影)
人類は大昔から、水害と闘ってきた。砂漠化が進む中国も、例外ではない。最初の王朝「夏」は、黄河の治水に成功して繁栄を獲得した。夏王朝の始祖・禹(う。前2297〜前2198)は黄河流域の用水路を巧みに利用して、川の氾濫から民を守り、豊かな国を築いたという。
黄河は上流域から黄土を運び込み(毎年16億トン)、川底をかさ上げした。だから、一度氾濫すれば、流路は元に戻らない。黄河は暴れ川だったのだ。
中国文明は大量の木材を浪費し、森林が消えてしまった。そのため水害は増え、そのたびに、疫病が蔓延し、飢饉が人々を襲い、政情不安に陥った。だから為政者たちは、治水に励んだ。文明の発達(森の破壊)が、洪水と治水のいたちごっこをもたらしたのだ。大地が干上がっても水が満ちあふれても、人は困窮する。人類の歴史は、水との闘いでもあった。
つきものだった「人柱」
ここで、日本の治水の歴史を辿ってみよう。
縄文時代の列島人は、それほど水害に苦しむことはなかっただろう。縄文人たちは、低地に住む必要がなかったし、1万年の経験知から、安全な場所を選べた。
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