「対南ア制裁解除」と連動した開催決定

執筆者:白戸圭一2020年8月16日
 

 

 1990年7月の「平成2年度アフリカ大使会議」で波多野敬雄国連大使(当時)が「アフリカ開発会議(後のTICAD)」の開催構想を提案したものの、外務省内ではこの問題について大きな進展のないまま時間が経過した。

 アフリカ第2課の神谷武課長(当時)が南アフリカ(南ア)情勢への対応で忙しい状態も変わりなかった。

 年が明けて1991年2月、南ア情勢は歴史的な転機を迎えた。

 2月1日に開会した南ア国会で、フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領(当時)がアパルトヘイト関連法の全廃を宣言したのである。

 アパルトヘイト体制を支えてきた法律は350以上に及んでいたが、その中でも(1)原住民土地法、(2)集団地域法、(3)人口登録法──の3つは、人種別の土地所有、人種別の居住地、国民の人種別分類について定めた体制の根幹を支える法律であった。

 デクラーク氏は演説で、この3つの根幹法の廃止を宣言した。アフリカ大陸の南端に残っていた世界最後の「白人帝国」の終焉が現実のものになろうとしていた。

懸念されたアフリカ諸国の反発

 神谷氏は民主化に向けて歩みを進めるデクラーク政権の改革を注視しながら、対南ア制裁解除のタイミングについて検討を続けていた。

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