シリコンバレーにはない価値がここにある

金田信一郎『つなぐ時計 吉祥寺に生まれた メーカー Knotの軌跡』

執筆者:藻谷浩介2020年9月6日

 「波」編集部から送られてきた本書のゲラは、クリップ止めされたA4判の束だった。前書きや著者紹介もなく、いきなり本文から始まっている。誰が書いた何の本だったか、執筆をお受けした後にいろいろ別の仕事があった関係で、まったく覚えていない。ここまで先入観や予備知識がないままに本を読むのは、子ども時代以来ではなかったろうか。だが紙をめくるごとに集中力は高まり、文字通り一気に読了した。

 そんな本書は、日本に80年ぶりに登場したという国産時計メーカーの、若き創業者のビジネス戦記である。主人公は、努力と天才と時間と感情を惜しみなくモノに向けている人間で、欲しがられるものとそうでないものの違いを見抜き、知られざる商品を見出し売れ筋に育て上げて生きてきた。30代後半にして人生何度目かの仕事上の裏切りに遭い、裸一貫に戻って自分自身で、オリジナルなアイディアと一貫した思想の下に時計づくりを始める。そして今回も胸のすくほどの、しかしちょっとほろ苦い成功を収める。

 ゲラの最後にあった短いあとがきで、この本を書いたのは昔お世話になった、大手紙の元ベテラン記者だと気付いた。それにしても達意の文章で、簡潔な表現が等速のトロットで連続し、読んでいて快適この上ない。しかも実話なので、小説のように万事ご都合よくまとまりはしない。「そっちの判断で良かったのか」とか、「その人はその後どうなったのか」といった、気になるその先が書かれていないエピソードも多く、事実を多面的に反芻して楽しめる。まるでAIが書いたようにのっぺりした粗製乱造の文章が目に余る、ネット時代の日本だが、そんな中にもここまで腕の立つ書き手がいて、手のかかった取材結果を切れ味鋭く削ぎ落して世に問うておられることに、なんだか勇気を頂いた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。