灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(116)

執筆者:佐野美和2020年8月30日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 日本の伝統と西洋文化が交わる時代の「おしゃれ」や「化粧方」を説いてきたあきが、顔にかかわるガンになるとは因果なものだった。

「死んだら白一色で飾ってね」

 と常日頃から冗談めいて話していたあきに対し、

「たくさんの白菊にとり囲まれ、透き通った白肌は少女のようでした」

 と秘書の飯島は報道陣に語った。

 あきの深刻な病気の発症は、ちょうど出馬の決まった時期と重なった。

 それでも「残酷区」と言われるほど過酷な全国区の参議院選挙を戦い、政治家への道を踏み出した。

 その数年前のテレビ出演の際から眼球が飛び出て目が異様に大きく見えることから、視聴者から「なにか病気なのでは?」とたくさんの投書がきた。

「あれは加齢で、瞼の凹みを直すために整形手術して瞼を膨らました」

 という噂まで流れていた。

 主治医の島本多喜男教授の話が残されている。

「リンパ肉腫ということですね。はじめ藤原あきさんは目の涙腺に炎症性の腫れができる肉芽腫「ミクリツ病」で通院を何年か続けていたんです。ところが選挙出馬直前にリンパ肉腫を発症しました。右の鼻にできたそれは悪性であり、鼻から首、昭和40年ごろには鼠径部。そして今年の都知事選の応援を終えた頃には胃壁のリンパ腺が剥がれて出血、そして最後は心臓が衰弱して亡くなりました。

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