灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(117)

執筆者:佐野美和2020年9月6日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 義江の「愛の勝者」三上孝子が帝国ホテルにやってこない日の義江は、誰の目にも孤独な淋しい老人に映った。

 それでも義江のあくなき食欲だけは旺盛だ。

 レストランでは若いボーイにナプキンを首元にかけてもらい、1日も欠かさないという牛ステーキは小さく切ってだされ、震える手でどうにかそれを口にはこんだ。

 夜食も欲しがり「今夜は夜中に何を食べさせてくれるのかな」と楽しみにする。

 藤原歌劇団の総監督は義江から旗揚げメンバーのバリトン歌手・下八川圭介に引き継がれた。第一線からは身を引いたものの、やはり心からオペラを愛する義江は東京で行われる様々なオペラ公演に嬉々として観劇に出かけていた。

 そんな中、あきと義江の間を裂くきっかけとなったソプラノ歌手の砂原美智子が、イスラエルから再び帰朝し、独唱会ではぜひ義江に挨拶してほしいというお願いをした。

 義江は遠く汽車や飛行機にゆられて出かけ、行く先々で声をふりしぼりながら、

「フランス語、ヘブライ語を習得し、たったひとりオペラの本場に入っていった砂原君の堂々たる意気込みは素晴らしい」

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