1957年、毛沢東は「反右派闘争」(写真)を主導し、知識人狩りを行った。歴史は繰り返す
 

 中国の黄河文明は世界史において輝かしい存在である。

 紀元前221年、秦の始皇帝は中国の統一に成功した。秦時代の中国は今より遥かに小さく、主に中原と呼ばれる一帯だった。それに伴って、中国の知識人の悲しい運命も始まったのである。

 始皇帝は外敵の侵略を防ぐために、万里の長城を築かせた。当時の民衆に多大な苦痛を与えた歴史はよく知られている。

 始皇帝は同時に、知識人の批判を封じ込めるため、「焚書坑儒」(書籍を燃やし、知識人を生き埋めること)を進めた。一説によると、『論語』も焼かれたといわれている。後世に伝わる『論語』は、当時の知識人が家の壁に隠したもの(竹簡)が後世に見つかったものだった。

「百家争鳴」であぶり出して「文字獄」

 焚書坑儒の「伝統」はその後、継承され、歴代王朝において「文字獄」が敷かれた。「文字獄」とは、皇帝を批判する文章を書いた知識人がすべて投獄、あるいは処刑されることである。権力者は自らが批判されるのを喜ばない。

 反面、知識人の本音を聞き出そうと、「百家争鳴」という言論の自由を保障するふりをして、本音を語った知識人がたちまち粛清されてしまう。その最たる事例は毛沢東時代の「反右派闘争」だった。

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