文武天皇の哀しみに思いを馳せてみては(中尾山古墳。まるえつさん撮影、以下同)
 

 奈良県高市郡明日香村の8世紀初頭の中尾山古墳が、第42代・文武天皇(683~707)の陵墓だった可能性が高まった。明日香村教育委員会と関西大学の調査によって墳丘が3段の八角形だったことが確かめられた。7世紀以降の天皇陵の形だ。文武天皇の祖父母、天武天皇と持統天皇が合葬された野口王墓(のぐちのおうのはか)も、八角形だった。

 2020年11月28、29日に開かれた現地説明会には大勢の歴史愛好家が集まり、注目を浴びているが、文武天皇の悲劇的な人生に思いを馳せた人は、どれほどいたのだろう。

密かに開催された「皇太子選定会議」

 文武天皇(珂瑠=かる=皇子)は影の薄い帝だが、大転換期の「支点」になったと言えば、理解していただけるだろうか。

 本来なら、病弱なひとりの皇族としてひっそり生涯を全うするはずだった珂瑠皇子が歴史の表舞台に立たされるきっかけとなったのは、祖父・天武天皇の崩御(686)だった。ここから、文武は歴史の大きなうねりに飲み込まれていく。

 天武亡き後文武の祖母・持統天皇と義父・藤原不比等が、天下を取りにいく。「公のために」と、人々が犠牲を払ってようやく完成しつつあった新たな体制を、2人は私物化した。この間、多くの皇族が利用され、その中のひとりが文武だった。

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