復原された「遣唐使船」(平城宮跡歴史公園 撮影:まるえつさん)
 

 遣唐使は、中国の元日朝賀の儀式に間に合うように出港の日時を決めていたようだ(森公章『遣唐使の光芒』角川選書)。

 遣唐使船は、なぜ頻繁に遭難したのだろうと、謎を追っていたら、ひとつの要因として、「日程に縛りがあった」ことに気づかされた。外洋を航海するのなら、最適な条件の時期が選ばれていたにちがいないと思っていたが、そうではなかったのだ。

 ただし、それで謎が解けたわけではない。遣唐使船はよく沈んだが、それよりも古い時代の遣隋使船は、一度も遭難していない。縄文時代から続く倭の海人(あま)は、自在に大海原を往き来していたイメージがある。歴史や技術が進歩するのなら、なぜ、倭の海人や7世紀前半の遣隋使が無事で、遣唐使船が沈んだのか、新たな謎が浮かびあがってくる。

 ひとつの仮説を用意しよう。

 日本は島国だから、技術と経験知に裏付けされた優秀な海人(海の民)が大勢いた。彼らは沈まぬ船で、大海原を駆け巡っていた。大木をくりぬき、丸木舟にして、その上に構造物を組みこみ、艪を漕いだ。この準構造船は嵐に遭って上部の構造物がバラバラになっても、丸木舟の部分にしがみついていれば、沈むことはなかったのだ。生きのびる可能性は高かった。もし仮に、遣隋使の時代、この準構造船で隋に向かっていたのなら、安全だっただろう。

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