飛鳥の烽火は壬申の乱の勝敗を左右した?

執筆者:関裕二2021年2月6日
古来、政争に敗れた貴種たちは葛城から紀ノ川、吉野に逃れてきた(葛城山中腹から飛鳥方面を望む:筆者撮影)

 

 奈良県高市郡高取町佐田で、飛鳥時代の烽火(のろし)の跡がみつかった。佐田タカヤマ遺跡だ。標高152.2メートルの丘陵に円形土壇が築かれ、煙突状に掘られた深さ2.7メートル、直径2メートルの穴に、焦げあとと灰が残されていた。

 この烽火は、白村江の戦い(663)で唐と新羅の連合軍に敗れた中大兄皇子が造らせたと推理されている。『日本書紀』天智3年(664)条に、対馬、壱岐、筑紫国に、防人(さきもり=守備の兵士)を配置し、烽火を置き、水城(みずき=防衛のための堤)を築いたと記録されているからだ。

 もし仮に北部九州沿岸部に敵が襲来すれば、その情報は数時間で畿内まで伝えられたらしい。実験したら、烽火の伝達速度は新幹線とよい勝負だった(『AERA』1988年7月26日号)。ちなみに、烽火のネットワークは、弥生時代中期から後期にかけて、すでに整っていた。瀬戸内海沿岸部の高地性集落で焼けた土がみつかるのだ。倭国大乱と記録された時代の緊張感が伝わってくる。

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