【ブックハンティング】諜報界の華麗なる仮面劇 

手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(小学館)

執筆者:野嶋剛2021年3月27日

 元NHKワシントン支局長で外交ジャーナリストの手嶋龍一が持つもう1つの顔は、国際社会を舞台にしたスパイ小説の高手である。本書は『ウルトラ・ダラー』(新潮社)や『スギハラ・サバイバル』(小学館)で世の中を驚かせた著書にとって11年ぶりの新作になる。

 過去の作品と同様、海外を舞台にした一流の国際インテリジェンスオフィサーが活躍する作品と思い込んで手に取ったが、意外なことに舞台は日本の神戸、そして主役は公安調査庁の地方職員。

 新境地の作品か!? と期待して読み進めると、やはり手嶋作品のファンを裏切らない、骨太で複雑な仕掛けにあふれた正統派のスパイ小説であった。

 冒頭から舞台は目まぐるしく転換する。ウクライナ・リヴィウ、北海道・根室、英国・ロンドン、そして神戸――。

 読者をミステリーの迷宮に巧みに引き込むのは、ストーリーの狭間にちりばめられる現地の歴史・文化・景観に対する巧みな記述である。インテリジェンスが数多の情報を磨き上げた末につくり出されるものだとすれば、手嶋作品の魅力の1つもまた、現地踏査、資料収集、情報源との対話などを通して生み出された文字の輝きにある。

 中国の国産空母建造、尖閣諸島問題、北朝鮮問題、中国企業の土地買い占めなど、我々もよく知る国際的なテーマで読者を惹きつけながら、多くの伏線を最後まで引っ張りつつ、一気に想像を超えた結末まで編み上げるストーリー構成の力が遺憾なく発揮されている。

主役は公調勤務の漫画好きオタク青年

 本書の主役である梶壮太は、公安調査庁の神戸事務所に勤める漫画好きのオタク青年。映像記憶能力を持ち、美術商の一族の出という変わり種だが、安定した職業というだけで公務員の仕事を選んだ、さえないインテリジェンスオフィサー(=鳴かずのカッコウ)だった。

 ところが、ジョギング中の偶然の出来事から、神戸の老舗シッピングカンパニーに怪しい動きがあることを嗅ぎとる。同社はかつて北朝鮮のフロント企業という疑いをかけられた「前科」があり、壮太にとっても調査を試みたことがある因縁の相手だ。

 現在は3代目が経営し、ある外国人に経営権をにぎられているのだが、その背後でうごめく「大物」を探し出し、日本で何を狙っているのかを特定するオペレーションが神戸を舞台に展開されていく。

  新冷戦の時代に入った米中の諜報戦を基軸に、日米中 、北朝鮮、ロシア、ウクライナが入り乱れ、ターゲットの本当の顔が何なのか、最後までわからない。まさに「諜報界の仮面劇」の謎めいた、そして、華やかな展開に読者は魅了されるだろう。

 物語の主旋律となるのは「海事」だ。

 海事、つまり船舶の世界は、透明な情報管理のもとに置かれている航空機の世界と違い、非常にグレーゾーンが多く、「情報通」の活躍する余地が多い。船籍問題ひとつをとっても、日本の船の6割がパナマ船籍と言われる「便宜置籍船」の問題など、通常の社会常識では理解できないことも多い。船の積荷も、コンテナを開けてみなければ分からない。だからこそ、海の情報を追う者たちは、あらゆるソースを使って、調査対象の尻尾をつかもうとする。

 諜報の世界には、人間との接触を通して核心に迫っていくヒューミント、公開情報から真実に迫るオシント、情報テクノロージで秘密を集めるシギントなどの手法がある。

 オープンソースから丹念に根気よく情報を集めるオシントを得意とする壮太は、彼を支える同僚の女性調査官、上司のベテラン・インテリジェンスフォサー、元公安警察の男などの協力を得ながら、次第に対象に迫る。

 鳴かずのカッコウが国際的謀略の謎に立ち向かっていくうちに才能を開花させ、第一線の諜報界へと飛翔していく成長物語としても読むことができるだろう。

 最後には強力な助っ人も登場するが、その種明かしはここでは控えておこう。

 ただ、本書が日英のインテリジェンスオフィサーの共同オペレーションへの展望を見せるところで締めくくられているのは示唆的だ。なぜなら今、アングロサクソン国の米国、英国、豪州、カナダ、ニュージーランドの5カ国の情報機関からなる「ファイブアイズ」に日本を加えようという動きが、英国の発案で進められている。そんな近未来に向けて補助線を引くような作品として読むことも、別の愉しみになるかもしれない。

最小にして最弱の諜報機関

 それにしても、なぜ手嶋は、日本人の間ですらあまり馴染みのない公安調査庁をキープレーヤーに選んだのか。

 その理由は、本書で登場人物の独白を借りてこのように語られている。

「公安調査庁は、政府の情報コミュニティに属しながら人目も惹かず、メディアも関心を払おうとしない。『最小にして最弱の諜報機関と見なされているが、いつか意外な手札として使えるかもしれない』」

 日本のインテリジェンス・コミュニティーの構成員は、内閣情報調査室、公安警察、外務・防衛の情報部門などがある。いずれも「省益」を強く意識する組織であり、行動目的が国益とずれてしまう欠点も指摘されている。

 一方、公安調査庁は、戦後GHQ(連合国軍総司令部)の主導で再組織され、日本の赤化阻止のために朝鮮総連を主な関心対象とした。オウム真理教による地下鉄サリン事件後は宗教組織やテロ組織へ監視対象の幅を広げているが、今は官学民を絡めた長期的かつ計画的なオペレーションを展開する手強い中国が、その主要ターゲットとなりつつある。

 法務省の外局ながら強制調査権や逮捕権を持たず、職員の忠誠が純粋に「国家」に向く性格を色濃く残す公安調査庁。これまでは本書の主人公と同様、諜報界の「鳴かずのカッコウ」と目されてきたが、錯綜する新冷戦の世界と日本が対峙していくうえで意外な切り札になってくれるのではないか、という手嶋の期待と激励が本作には含まれていると読むことができそうだ。

 

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