インドではじまる「自主廃車政策」の一石五鳥

執筆者:緒方麻也2021年4月1日
不況に喘ぐ自動車産業を救うか(C)AFP=時事

 

不況に喘ぐインド自動車業界の救済策が発表された。カギを握るのはクルマのスクラップ。そのワケは?

 

 インドのニティン・ガドカリ陸運・幹線道路相は3月18日、老朽化した自動車の買い替えを促進する「自主廃車政策」の詳細を発表した。自主的にクルマを廃車するオーナーに対し自動車メーカーが新車購入代金の5%をキャッシュバックすることなどを柱とする。

 この新制度は新車販売の追い風になるだけでなく、排ガスの軽減や燃費向上による環境負荷の軽減や省エネ、金属資源のリサイクル、さらには新規雇用創出などにもつながる「一石五鳥」の新政策として期待されている。

「廃車ほぼゼロ」という都市伝説

 対象となるのは製造から15年以上が経過した商用車と20年が過ぎた乗用車。前述した新車購入代金のキャッシュバックのほか、課税や車検の義務化なども盛り込む方針だ。

 2018年に約517万台の自動車(商用車を含む)を生産し世界第4位の自動車大国となったインドだが、クルマのスクラップは先進国に比べて大きく遅れている。

 ここ10年で側板が大きくへこんだバスやクラシックな英国式スタイルで知られた「アンバサダー」などは大きく数を減らし、それぞれ冷房や電光掲示板付き新型バス、マルチ・スズキやタタなどのコンパクトカーに置き換わった。しかし、いったん農村部に行けば、使い込まれた年代物のトラックや乗り合いバスが黒煙を上げて走り回る光景が今もみられる。

 良くも悪くもモノを大事に使うことで知られるインドでは、2000年代初頭まで「自動車の累計生産台数と保有台数がほぼイコール」、つまり廃車が限りなくゼロだったという「都市伝説」があるぐらいだ。

 政府データによると、直ちに自主廃車の対象となる老朽車両は乗用車などが約850万台、商用車が約170万台に達すると見られており、インドの排ガス規制「バーラト・ステージⅥ」が導入されると、不適合車は2800万台に達する見通しだ。

 課税などを導入してもこれらを100%廃車に誘導するのは困難だが、新車販売が伸び悩む中で一部でも新車に置き換われば、業界の支援という点で大きなインパクトとなる。

3万5000人の雇用創出

 陸運・幹線道路省は、2023年までに全国に50カ所の「検査・廃車センター」(仮称)を開設する計画だ。

 公営企業と民間企業による官民共同事業(PPP)や州政府によって建設・運営される。

 手始めに2022年春から政府や公営企業が保有する公用車を対象に運用を開始し、環境負荷の大きいバスやトラックなどは2023年春から、その他の乗用車などは2024年6月からの導入を予定している。

 ガドカリ大臣によると、新制度によって1000億ルピー(約1500億円)以上の新規投資が見込めるほか、3万5000人の雇用が生まれるとしている。さらには一部で社会問題となっている老朽車の不法投棄などの減少も期待できる。

 HDFC銀行の試算によると、廃車解体・リサイクル事業の市場規模は年間60億ドルに達するという。

 早くも先手を打つ民間企業が出てきている。乗用車市場で50%近いシェアをもつ「マルチ・スズキ」は「豊田通商」と合弁で、デリー郊外のウッタルプラデシュ州ノイダで廃車スクラップ・リサイクル事業を開始。

 商用車・SUV大手の「マヒンドラ&マヒンドラ(M&M)」を傘下に持つ「マヒンドラ・グループ」もスクラップ金属を扱う国営企業「MSTC」と合弁で、同様の廃車解体工場をノイダやプネー、チェンナイの3カ所で保有しており、2022年までにあと25カ所の新設を計画中。

 デリー郊外ハリヤナ州に最新鋭のスクラップ工場を持つ「タタ製鉄」も同様の事業参入を計画している。

自動車業界のご意見番は……

 インド自動車工業会(SIAM)は3月中旬、政府の方針を支援し、車検場整備で協力するとの声明を発表した。格付け機関「ICRA」は、この「自主廃車政策」によって完成車メーカーや販売店が潤うのはもちろん、大気汚染の軽減や金属の安定供給による価格低下、中国からの屑鉄輸入の削減も見込める、と評価した。

 その一方、車検の実施や車両スクラップを行う「検査・廃車センター」の迅速な配置や、透明性の高い廃車の価格算定、スクラップ証明書発行の仕組みづくりなどがカギとなる、と指摘した。

 2020年末、インド医学研究評議会(ICMR)や国連環境計画(UNEP)などが「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」の支援で実施した調査によると、インドでは2019年に大気汚染を原因とする呼吸器や心臓の疾患によって約167万人が死亡した。これは全死亡者の18%を占めており、2017年に比べて43万人も増加した。

 大気汚染による経済損失は、インドのGDP(国内総生産)の1.36%、約368億ドルに達したという。

 大気汚染をもたらす原因は自動車だけではないが、排ガス基準を満たさない老朽車両や整備不良車両を排除することで、環境対策に一定の効果が見込まれる。

 インド工業連盟(CII)など経済団体も政策を歓迎し、コンサルティング大手のデロイトインディアも、

「老朽車の廃棄を促し、乗り続けたい人には新たな負担をしてもらうという点でバランスが取れている」

 との見解を示している。

 政府ではキャッシュバックのほか、自主廃車に応じたオーナーに対する新車登録料の免除や道路税の軽減なども検討している。ただ、M&Mのパワン・ゴエンカ社長は、廃車政策について「正しい方向性を持った政策」と評価したものの、「手厚いインセンティブがなければうまくいかない」と注文を付けた。

 今回の「自主廃車政策」の成否を握るのはやはり廃車台数だ。

 自動車業界のご意見番であるマルチ・スズキのR・C・バルガバ会長は、「スクラップ工場への投資が回収できるかどうかは、廃車となるクルマの数次第だ」と慎重な見方を示している。

 ミクロ情報の確度には定評がある現地経済紙エコノミック・タイムズは、既存のスクラップ業者は零細経営がほとんどで、流通も未発達であることなどから、「スクラップ工場への投資を回収するには3~4年かかる」とする専門家のコメントを紹介していて、やや心配な状況だ。

人口当たりの自動車保有台数は中国の8分の1

 自動車不況とそれに続くコロナ禍でインドの自動車生産は2020年に約339万台に減少したが、自動車保有台数はまもなく5000万台に達する見通し。だが、人口1000人当たりの保有台数は約22台(2018年)で、中国の8分の1、米国の44分の1しかない。

 今回の自主廃車政策には、本格的なモータリゼーション到来の前に車検や廃車といった先進国では当たり前の仕組みを導入し、これを景気浮揚や環境保護、自動車流通の合理化につなげる明確な狙いがあるが、それには様々な環境整備や事業支援が必要となりそうだ。

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