ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 愛知県豊橋市のJR豊橋駅前から豊鉄に乗り、3つ目の駅が愛知大学前。運動部の学生の声が響くグラウンド、馬術部の馬場の前を過ぎると、松の巨木と出会う。根は大蛇のとぐろのように渦巻き、幹は二股に分かれ、背後の体育館の屋根をはるかに超えて枝を伸ばす。1927(昭和2)年、この地に開校した陸軍豊橋教導学校を行幸した昭和天皇の記念植樹の松と、遺構である旧大講堂だ。いまはベージュと茶に塗られた建物の入り口は、大きく武骨で頑丈そうな格子の扉を持ち、若者たちのキャンパスの風景にどこか異質な時代感をもってたたずむ。

 この土地の由来は屈曲し、もともと日露戦争の後に創立された第十五師団の衛戍地だったが、国際協調と軍縮、国家財政緊縮の時代だった1925(大正14)年、宇垣一成陸軍大臣による第三次の軍備整理によって師団は廃止に。その広大な跡地を活用して、下士官養成の教育機関となる教導学校が27(昭和2)年、仙台、熊本とともに豊橋に置かれた。

 連載の主人公、青森出身の対馬勝雄陸軍中尉が、出征先の満州から下関港に帰還したのは34(昭和9)年3月22日だった。所属する第三十一連隊(弘前)など第八師団混成旅団の山砲小隊長、乗馬小隊長となって約2年4カ月、熱河作戦などの戦場を巡った。中国との国境警備の任務地、古北口で豊橋教導学校配属を命じられ、第八師団の将兵600人の晴れやかな弘前凱旋より3カ月余り早い単身帰国だった。勝雄はこの年11月、満州事変での論功行賞として金鵄勲章(功五級)を授与されるが、「凱旋」という言葉が好きではなかった。

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