ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 豊橋教導学校の教え子を率いての西園寺公望襲撃計画が挫折し、対馬勝雄中尉(青森出身)=享年28歳=はやむなく同僚の竹島継夫中尉と2人、東京の同志たちの蹶起に参加すべく夜汽車に乗った。1936(昭和11)年2月26日未明の首都は大雪の中だった。蹶起は何も知らぬ家族をも巻き込んだ。

新聞号外に兄の名前

 そのころ、勝雄の妹たまさん=当時22歳。昨年6月、弘前市で104歳で死去=は横浜に給料の良い洋裁の仕事を見つけ、元町の釣り船屋の2階を借りて通った。2月26日、時ならぬ新聞号外に街の人々は騒然とし、たまさんは胸さわぎを覚えて、長く同居した東京・四谷箪笥町の姉タケの下宿に駆け込んだ。青年将校らが午前5時ごろ、首相官邸などを襲撃し、岡田啓介首相や斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が即死したという。

二・二六事件の経過を伝える新聞。勝雄の妹たけさん、たまさんが買い集めた

 どの新聞にも兄の名はなかったが、安堵できなかった。病気療養中の妻千代子を預かる静岡の実家も、豊橋教導学校から出奔同然に連絡が取れなくなった勝雄を心配し、「廿五ヒヨリカツオユクエフメイ」との電報を青森の両親に打っていた。遺族が戦後に自費出版した『邦刀遺文 二二六事件 対馬勝雄記録集』で、たまさんの「記憶のノート」を基にした手記は事件後の数日間をこう伝える。

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