北朝鮮の最高指導者が日本の法廷で裁かれる ©フォーサイト編集部

 

金日成の死と脱北への決意

 北朝鮮で理工系の大学を卒業して就職した私は、職場で出会った現地の男性と結婚しました。彼は「帰国者」ではなかったので、私のような低い「成分」(出身身分によるランク)の人間と結婚するのは奇特なことでした。姑は私と結婚したことがずっと気に入らず、ずいぶんいじめられました。それでも私たちは、生まれてきた5人の子どもを北朝鮮でどうにか育て上げました。2003年に脱北するまでの43年間、私は自分の身を護るために「見ざる聞かざる言わざる」を貫き通しました。どんなに理不尽なことを見聞きしても、誰にも、何も不満を漏らしませんでした。私は京都で朝鮮高校に通っていた頃から、独裁と個人崇拝を嫌って『金日成将軍の歌』を歌わないような人間でしたから、民主主義とは真逆の異常な独裁体制の下で沈黙を続けることは、何より辛いことでした。でも、あの国で生き延びるためにはそうすることしかできなかったのです。

 それだけ細心の注意を払っていても、足をすくわれそうになったことがありました。仕事で平壌を訪れた際に、京都の朝高時代の同級生に会いに行ったのです。そしたら彼女はなんと、何人かの知り合いの前でいきなり「この人は変わった人でね、高校時代は一度も『金日成将軍の歌』を歌わなかったのよ」と言い出したのです。私は心臓が止まるかと思いました。そのままそそくさと退散して、家に帰ってからもずっとドキドキしていました。なぜ彼女があんなことを口にしたのか、今でも理由はわかりません。でも彼女だって、北朝鮮ではあの発言が私の死に繋がりかねないことは当然理解していたはずです。結局、幸運にもその発言が大事になることはなく杞憂に終わったのですが、私はその日から1年以上も生きた心地がせず、「いつ保衛部が捕まえに来るだろうか」とビクビクしながら過ごしました。

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