スサノヲ篇(5)
倭国大乱の時代の日本列島――スサノヲの文明論4
2021年12月26日

弥生時代後期の五斗長垣内[ごっさかいと]遺跡(兵庫県淡路市)。「淡路島の鉄工房」だった(筆者撮影)
ヤマト建国の話を続けたい。鉄も富も乏しかった奈良盆地に、なぜ国の中心が置かれたのか。その謎を考古学で解き明かしてみよう。
ヤマトに都市「纏向」(奈良県桜井市)が出現する直前、日本列島は混乱状態にあった。中国の文書には、2世紀半ばから後半にかけて、倭国は乱れたと記録されている。中国の後漢王朝の勢いが衰え、東アジアに動揺が広がり、その余波を受けてしまったのだ。
「魏志倭人伝」には、男王が70~80年間倭国を統治していたとある。ただ、争いが絶えなかったので、女王を立てることで、混乱を収拾したという。これが、邪馬台国の卑弥呼で、景初3年(239)に、魏に朝貢している。
ただし、ここでは邪馬台国論争には深入りしない。あくまで、纏向遺跡の成立前後の日本列島の動きについて考えてみたいのだ。
弥生時代後期の西日本は、大きく分けて4つの文化圏に分かれていた。(1)北部九州から瀬戸内海西部にかけての銅矛文化圏(2)近畿地方を中心に東海地方に広がる銅鐸文化圏(3)四隅突出型墳丘墓を造る出雲(4)特殊器台・壺を造る吉備――だ。出雲と吉備では、いち早く青銅器祭祀をとりやめ、個性的で大きな墳丘墓を造営するようになった。
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