通訳者は国際政治の綱の上で踊る

Anna Aslanyan『Dancing on Ropes』

執筆者:植田かもめ2022年2月27日
 

 1945年7月26日、ワシントンの戦時情報局は、日本に降伏を迫るポツダム宣言を発表した。当時の外務大臣の東郷茂徳はこの宣言を無条件降伏の要求とは見なさず、連合国との交渉の余地を探るべきと考えた。首相の鈴木貫太郎も東郷を支持し、宣言に対しては論評を加えずに内容を国内に公開するのみに留める事が決定された。記者発表の場で、鈴木は当該宣言を「黙殺」すると語った。

 後に鈴木はこの発言を「ノーコメント」という意図で語ったとされる。しかし、米国はこれを宣言の「拒否」と解釈した。7月30日のニューヨークタイムズ紙の一面は、「日本は連合国による降伏の最後通告を正式に拒絶」(‘Japan Officially Turns Down Allied Surrender Ultimatum')と伝えている。戦争は継続され、8月には広島と長崎に原爆が投下された。これは国際政治における「誤訳」の例として挙げられる著名なもので、例えば英語版のWikipediaで‘Mokusatsu'と検索するとこのエピソードが見つかる。

 本書『Dancing on Ropes: Translators and the Balance of History』(ロープの上のダンス:通訳者と歴史のバランス)も、冒頭にこのエピソードを紹介する。もっとも、戦争はこの翻訳の有無に関わらず継続され、原爆投下はいずれにせよ起こったであろうという後世の歴史学の見解も補足している。ジャーナリストでありフリーランスの翻訳家・通訳者でもあるアンナ・アスラニアンによる本書の目的は、誤訳を糾す事ではない。複数の言語と文化によって構成されている私たちの世界で、翻訳や通訳という作業がいかに不安定な歴史のバランスの上に成り立っているかを示す事が、本書のテーマである。

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