屋良朝苗:涙と憤懣の「返還協定」調印式

執筆者:野添文彬2022年5月22日
調印式をテレビ中継で見守る屋良朝苗(沖縄公文書館所属)
 

 1969年に入って日米両政府は沖縄返還に向けた交渉を本格的に開始していく。69年の沖縄返還交渉で最も重要な争点になったのが、施政権返還後の沖縄の米軍基地のあり方である。

 米国側は、沖縄返還後も沖縄米軍基地の最大限の自由使用の維持を求めた。

 これに対して日本政府は、沖縄から核兵器を撤去し、そして日本本土の米軍基地と同様、日米安保条約、特に事前協議制度を適用するという「核抜き・本土並み」返還を目指す¹

 一方、「即時無条件全面返還」を掲げる行政主席の屋良朝苗は、沖縄戦で多くが犠牲になった経験や、朝鮮戦争やベトナム戦争に直結し沖縄が報復を受ける恐れがあることから、米軍基地の存在に反対し、またその存在を認めている日米安保についても賛成できないという立場だった。さらに、沖縄と日本本土の米軍基地では密度が異なり、基地機能にも違いがある中で、「本土並み」の内容についても疑問視していた。

佐藤・ニクソンの「沖縄返還合意」

 5月15日、上京した屋良は、愛知揆一外相に「沖縄問題と安保とは切りはなしていただきたい」「沖縄を安保の手段として考えてもらいたくない」という考えを伝えている²

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