屋良朝苗:最も困難に満ちた1971年

執筆者:野添文彬2022年5月29日
「沖縄復帰に関する建議書」を佐藤栄作首相に渡す屋良朝苗(C)時事

 

 後に屋良朝苗は、71年について「私の主席、知事在任中の激動8年の中で最も困難、混乱に満ちた年であった」と回想している。 

 前述のように、70年末から71年にかけて、「コザ暴動」や毒ガス移送など、沖縄社会は激しく揺れ動いた。その中でも特に屋良を苦しめたのが、革新陣営からの批判である。

高まる革新陣営との摩擦 

 革新陣営内の不満は、復帰準備作業が沖縄の頭越しに日米両政府によって一方的に進められているのではないかという点にあった。 

 日本政府は、沖縄返還協定をめぐって対米交渉を進めると同時に、70年11月に第1次復帰対策要綱、71年3月に第2次復帰対策要綱、71年9月に第3次復帰対策要綱をそれぞれ閣議決定し、矢継ぎ早に復帰準備を進めたのである。 

 それに対し琉球政府では、70年10月、復帰対策室が設置され、日本政府と協力しながら復帰準備作業を行った。屋良は、「復帰準備に保守も革新も与党も野党もない」という立場から、復帰対策室のトップである室長代理に、もともと保守系で琉球政府副主席をつとめたこともある瀬長浩を指名した。 

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