西銘順治:幕を閉じた3期12年の「保守県政」

執筆者:野添文彬2022年7月17日
第42回秋季国体開会式で入場行進する沖縄県選手団(C)時事

 1986年11月の沖縄県知事選では、西銘が革新陣営の金城睦(かねしろ・ちかし)に7万票差の大差で勝利し、3選を果たした。この選挙では、西銘が2期8年間の実績を強調したのに対し、革新陣営は内部で対立し候補者擁立が遅れ、西銘が圧勝したのである。

「日の丸」掲揚で揺れた海邦国体

 西銘県政3期目の重要な事業となったのが、第42回国民体育大会(海邦国体)の開催(87年10月)である。海邦国体開催にあたり、西銘は85年10月、昭和天皇に対し「ぜひご来県され、日本の戦後を終わらせてください」と出席を強く要請する。昭和天皇も87年4月の記者会見で、沖縄訪問は「念願」であり、「戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらいたい」と意欲を示した。昭和天皇の体調悪化によって国体出席は中止となるが、海邦国体では沖縄県が総合優勝し、西銘は「これでようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と述べた。

 なお、海邦国体開催に際して、「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱が学校現場で推進され、沖縄県内で論争が起こった。

 そもそも85年9月に文部省が公表した調査結果で、公立小・中・高校における「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱の割合が沖縄県では全国の中でも極めて低いことが明らかになった。かつて復帰運動のシンボルであった「日の丸」は、復帰に対する複雑な感情から掲揚されなくなっていたのである。海邦国体開催の決定を契機に、沖縄県教育委員会は、「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱の割合を全国並みにすべく、各学校に圧力を加えていく。

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