大田昌秀:「学者知事」の原点となった沖縄戦

執筆者:野添文彬2022年7月24日
米兵による少女暴行事件についてコメントを読み上げる大田昌秀沖縄県知事(那覇市・沖縄県庁)(C)時事

 

戦後50年目の異議申し立て

 1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園には主催者発表で8万5000人が集まった。そこには、これまでの集会と異なり、乳母車の赤ちゃんをあやす若い母親、制服姿の高校生、この日のために臨時休業した零細企業の社長など、立場や党派を超えて幅広い人々が参加した。会場には、激しい怒りとともに「今が最大のチャンス」「今度という今度は…」という思いが満ちていた¹

 この日開催されたのは、9月4日、3人の米兵が12歳の女子小学生を暴行した事件に抗議するための県民大会であった。この事件への沖縄県民の反発はすさまじいものがあった。そして沖縄県議会全会派、沖縄県経営者協会、連合沖縄、沖縄県婦人連合会、沖縄県青年団協議会など18団体が呼びかけ、約300団体が実行委員会に名を連ねるという、まさに保革を超えた「島ぐるみ」の態勢で、この県民大会は開催されたのである²

 県民大会で挨拶に立った沖縄県知事の大田昌秀は、用意してあった挨拶文をポケットにしまい、自分の思いを話し始めた。

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