大田昌秀:問い直した「沖縄・沖縄人」

執筆者:野添文彬2022年7月31日
大田が教鞭をとった琉球大学は沖縄戦で焼失した首里城跡地に建てられ、80年代に西原町に移転した(1965年撮影)(C)時事

 

終生のテーマとなった沖縄差別問題

 渡米した大田は54年7月、ニューヨークにあるシラキュース大学大学院修士課程に入学しジャーナリズムを専攻する。

 米国でジャーナリズムを勉強する中で、米国内の黒人差別をめぐる議論をきっかけに差別や偏見といった問題に関心を抱くようになった。そして多数派と少数派の関係の問題に関心を広げ、日本人の沖縄に対する差別について考えるようになる。日本における沖縄差別の問題は大田にとって終生のテーマとなった。

 また米国留学を通して、大田は米国の民主主義に信頼を置くようになる。

 56年6月、シラキュース大学大学院を修了した大田は沖縄に戻り、琉球大学基金財団で大学の広報の仕事に取り組む傍ら、琉球大学で非常勤講師としてジャーナリズムを教えた。58年には、琉球大学文理学部の講師として採用される。

 戦後、米軍当局によって設立された琉球大学には、宮里政玄(みやざと・せいげん)(国際政治学)、東江平之(あがりえ・なりゆき)(社会心理学)、比嘉幹郎(政治学)など、沖縄出身で戦争を体験し、その後米国に留学して学位を取得した新進気鋭の研究者が在籍していた。大田を含め、彼らは自分たちの専門の研究にとどまることなく、沖縄のあり方について積極的に発言していく。

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