それは1960年10月12日、1カ月後に衆議院選挙を控えた日比谷公会堂でのことであった。当時の社会党委員長、浅沼稲次郎が演説中に右翼少年に刺殺された。享年61。刺した少年の名は山口二矢(おとや)。事件から3週間後、送致された鑑別所にて自殺。享年17だった。
古今東西の暗殺がままそうであるように、まるで実行者に天が味方したかのようないくつもの偶然と手違いが重なり犯行は成功へと導かれた。
またやはり多くの暗殺がそうであるように、犯行の動機や背景にはどこか不分明なところが残る。なるほど大日本愛国党・赤尾敏の薫陶を受けた右翼少年が左翼政治家を狙うこと自体は何の不思議もないようだが、なかでもなぜ浅沼だったのかについてはどうやら偶然が大きかったようだ。浅沼を暗殺することで何か具体的な成算があったのではない。少年自身の説明は「国民の覚醒を促す」といった程度のぼんやりとしたものであった。
自殺と同様に殺人もまたある種の統計的な事象であり、それは要人殺害でも同様である。一定の条件の下で時折必ず起こるものといえばそれまでであろう。とはいえ、政治指導者の突然の死はやはりどこか時代の象徴という性格を帯びる。
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