「デモクラシー過剰」な時代における「孤独な個人」の凶行

安倍晋三元首相銃撃事件によせて

執筆者:河野有理 2022年8月4日
エリア: アジア
2022年7月11日、東京の増上寺で故安倍晋三元首相に献花する人たち (C)AFP=時事
安倍晋三元首相銃撃事件に際し、「われわれはあまり山口二矢を思い出さなかった」と筆者は言う。それは談合とコンセンサスの政治である55年体制下の浅沼稲次郎刺殺事件が、現在とは異なる時代相で起きたことを直観しているからかもしれない。激しい党派対立と結びつくデモクラシーの過剰もまた、その過少と同様に、暴力への誘因であるのではないか。

 それは1960年10月12日、1カ月後に衆議院選挙を控えた日比谷公会堂でのことであった。当時の社会党委員長、浅沼稲次郎が演説中に右翼少年に刺殺された。享年61。刺した少年の名は山口二矢(おとや)。事件から3週間後、送致された鑑別所にて自殺。享年17だった。

 古今東西の暗殺がままそうであるように、まるで実行者に天が味方したかのようないくつもの偶然と手違いが重なり犯行は成功へと導かれた。

 またやはり多くの暗殺がそうであるように、犯行の動機や背景にはどこか不分明なところが残る。なるほど大日本愛国党・赤尾敏の薫陶を受けた右翼少年が左翼政治家を狙うこと自体は何の不思議もないようだが、なかでもなぜ浅沼だったのかについてはどうやら偶然が大きかったようだ。浅沼を暗殺することで何か具体的な成算があったのではない。少年自身の説明は「国民の覚醒を促す」といった程度のぼんやりとしたものであった。

 自殺と同様に殺人もまたある種の統計的な事象であり、それは要人殺害でも同様である。一定の条件の下で時折必ず起こるものといえばそれまでであろう。とはいえ、政治指導者の突然の死はやはりどこか時代の象徴という性格を帯びる。

池田勇人による「浅沼稲次郎追悼演説」の狙い

 1960年という年は、政治史的に言えば、「55年体制」が完成を迎えた年である。この年の6月に空前の盛り上がりを見せ、33万人の群衆が国会議事堂を取り囲んだいわゆる「安保闘争」は、反議会主義的な直接行動の可能性のいわば最後の瞬間だった。1955年に左右を統一して生まれた社会党も、やはり55年に武装闘争方針を放棄し議会主義政党へと舵を切ったはずの共産党も、この「闘争」への態度はあいまいで微妙なものだった。最終的には「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」とする新聞大手七社共同声明の論調に沿う形で運動の収拾に向かったものの、断固国会突入を主張する全学連から見ればこうした態度は裏切りにもうつった(以後、この両党に飽きたらない層を糾合していわゆる「新左翼」が伸長していくことになる)。他方、一般世論の側から見れば両党が暴力を支持する「議会主義の敵」なのではないかとの疑いも根強く、闘争以後、特に社会党の党勢は低迷気味だった。

 衆院選を控えた三党党首討論会中の浅沼の劇的な死は、「議会主義の敵」としての社会党のイメージを払拭することになった。一種の天祐だったのである。当時、東大の学生だった江田五月(後に政治家)は事件の報を受けて、瞬間、「この事件は社会党にとってよかったのではないか」と思ったという。他方、社会党に押し寄せる同情票の割を食ったのは演説会場に自民党、社会党と並ぶ三党目として招かれていた民社党(当時の名称は民主社会党)だった。前年に安保問題をめぐる現実主義路線を採る社会党右派の議員たちが脱党して結成したこの党はこの選挙に党勢拡大を期し、事実、反応は上々だった。だがその出鼻が一挙にくじかれたのである。党首・西尾末広は、搬送された浅沼の死を報じるニュースを聞いて「しまった」とつぶやいたという。予想通り、1カ月後の選挙は、事件前の期待の大きさに比して、惨敗といってよいものだった。

 これに対し、この危機に見事に対処したのは自民党だった。首相秘書官・伊藤昌哉が「沼は演説百姓よ/汚れた服にボロカバン」という詩を中心に据えて起草した破格の追悼演説は、6日後の衆院本会議で池田勇人によって朗読され、評判を呼んだ。議場ではハンカチを使う議員も目立ったという。池田が心から浅沼を悼んでいたかどうかは疑問である。池田は演説の評判に気を良くし、「あの演説は、五億円か十億円の価値があった」と伊藤に語ったという。自民党への逆風を10億円で買い戻せるなら安い(今なら200億円くらいだろうか。ちなみにラーメン一杯45円の時代である)。演説の文面よりはこちらの方が池田の本音に違いないが、ともあれ反対党の党首の追悼演説において反対党支持者をも泣かせる演説を読みあげることの価値を池田は知っていたのである。統治理性とはこういうものであろう(事件の概要や背景、人物の発言につき沢木耕太郎『テロルの決算』、民社党につき竹内洋『革新幻想の戦後史』)。

 浅沼の死が引き起こしたかに見える現実主義的な左派の退場と、保守党による包摂的な「演技」とは、その後の日本政治の縮図であった。空想的な理想論を唱える二分の一大政党の社会党と、現実を代表する一大政党による阿吽の呼吸が支配する政権交代なき「コンセンサスの政治」である。こうした体制の下で、共産より「左」の勢力はセクトとして大学キャンパス内に封じ込められ、社会党より「右」の野党は議会内の少数党にとどまるというわれわれのよく知る55年体制がいよいよその全貌を表すことになったのである(したがって1955年体制は1960年体制と呼ぶべきだという主張もある)。

55年体制と「暗殺の伝統」の終焉

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カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
河野有理 1979年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。日本政治思想史専攻。首都大学東京法学部(当時)教授を経て、現在、法政大学法学部教授。主な著書に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会、2011年)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『近代日本政治思想史』(編、ナカニシヤ出版、2014年)、『偽史の政治学』(白水社、2016年)、『日本の夜の公共圏:スナック研究序説』(共著、白水社、2017年)がある。
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