やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲

一口にかぎる

執筆者:阿川佐和子 2026年3月13日
タグ: 日本
エリア: アジア
お通しは、一口にかぎる(写真はイメージです)

 料理屋さんに入って、まず飲み物を注文し、メニューを見ているところに、

「お通しでーす」

 小さな器が供される。嬉しい。店によってそれぞれの工夫がされていて、その店の意気込みを知るためにも大事な一品だし、なにより酒の相方として欠かせぬ存在である。

 父は生前、食卓につくや飲むお酒を決めて、母や私に向かい、断りを入れるのが常であった。たとえば、「ビール!」と父に言われて冷蔵庫からビールを取り出し、食卓に運ぶと、

「まだ、出すな」

 家族は聞き慣れているけれど、お店の人はたいてい驚く。ビール瓶を持ったまま、その場に立ち尽くす。注文されたから持ってきたのに、「出すな」とはどういうこと? という顔をしている。当たり前だ。しかし父には父の理屈がある。食べ物がなにも出ていないうちにビールだけ飲むことはできないのである。

 酒の肴と一緒に最初の一口を飲みたい。それが父の信条であった。そういう父のわがままを、子どもの頃は「面倒臭い人だ」と思ったけれど、いつしか私もその血を引き継ぐようになっていた。立派な料理でなくてもいい。お酒を飲みながら、ちょこっとつまめるおかずがなにか欲しい。そう思うたび、「父とそっくりだ」と情けない気分になる。

 だから私にとって、おいしいお通しはありがたい。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』、『レシピの役には立ちません』(ともに新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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