2022年2月24日、ウクライナの首都キーウを目指してベラルーシ領から南下を始めたロシア軍は、国境を越え、広大な荒野に足を踏み入れた。1986年に爆発事故を起こし、今なお放射能に汚染されているチェルノブイリ(ウクライナ語では「チョルノービリ」)原発周辺の立ち入り制限区域である。ロシア軍はその日のうちに原発の周囲に展開し、原発に勤務して管理や監視に携わっていたウクライナの技術者や科学者ら、施設の防護を担っていた警備隊員らは、一斉に自由を奪われた。
ロシア軍の主力部隊はさらに南下し、キーウ郊外ブチャでの虐殺を含む数々の戦争犯罪に手を染めた後、4月1日までにベラルーシ領に撤退した。この際、科学者や技術者は解放されたが、警備隊員ら169人は「軍人」と見なされ、捕虜としてロシアに連れ去られた。拘置所や刑務所に拘束され、拷問も受けた彼らのうち、半数あまりは捕虜交換で解放されたものの、まだ多数の人たちが帰国できないでいる。元捕虜と、いまだ解放されない捕虜の家族、原発関係者らに話を聞き、経緯を探った。
ロシア軍、原発に現る
ウクライナの首都キーウの真北にあたるベラルーシ国境地帯は、欧州第3の大河ドニプロ川とその支流プリピャチ川による湿地帯が広がり、もともと人口が希薄な土地である。その中央に位置するチェルノブイリ原発が事故を起こし、強い放射能で汚染されたことから、原発の周囲半径30キロ前後の住民は全員立ち退きを余儀なくされ、現在でも許可なしには入れない。以前は、勝手に戻ってきて暮らす元村人たち「サマショール」(自発的な帰郷者)がいたが、高齢化でその数は減っている。
電力不足から事故後も発電を続けていた原発は、2000年に全炉が運転を停止した。しかし、核燃料を含む炉心溶融物が大量に残って放射線を放出し続け、廃炉はなかなか進まない。延々と続く事後処理のため、原発やその周辺に常時勤務する人の総数は、約2300人になるという。
原発勤務者の多くは事故前、原発から北西に2キロあまりに築かれた街プリピャチに暮らしていた。ソ連各地から集まったエリート技術者らの住まいとして原発建設に伴って築かれ、当時最先端の設備を備えた街といわれたが、事故に伴う放射能に汚染されて廃市となった。技術者らは、比較的汚染が少ないドニプロ川の対岸に新たに開かれたスラヴチチ市に移り、約50キロ西に位置する原発まで、一部ベラルーシ領内を経由する鉄道で通うようになった。その後1991年にソ連が崩壊し、ウクライナとベラルーシが独立したことによって、原発に出勤するには毎回いったんベラルーシに入国し、ウクライナに再入国する手続きが必要になった。それでも、列車に乗っている時間は約40分に過ぎない。首都キーウでは、渋滞の中を車やバスで1時間以上かけて職場に向かう人が少なくないことを考えると、比較的恵まれた通勤環境だといえる。
原発勤務者らの勤務は、職種や仕事の環境によってまちまちである。毎日通う人もいれば、数日から2週間のローテーションで勤務する人もいる。
放射性廃棄物処理のオペレーターを務めるオレクサンドル・シェレパノウ(43)は、2022年2月23日午後6時半、同僚ら100人あまりとともに、スラヴチチ発の列車に乗った。原発で午後8時に仕事を始め、午前8時までの夜勤が明けると自宅に戻れる職場である。この時すでに、ロシア軍は兵力をウクライナ国境に集めており、侵攻が近いとの噂が流れていた。もしかして、すでに戦車が配置に就いていないか。列車がベラルーシ領内に入ると、オレクサンドルは窓の外に目を凝らした。しかし、何も見えない。気配さえ感じられない。彼は少し安心した。戦争が起きるようには思えなかった。
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