第3部 ミサイルの下で(3) オデッサ、狙われた世界遺産

執筆者:国末憲人 2025年3月22日
タグ: ウクライナ
エリア: ヨーロッパ
「ポチョムキン階段」として知られるプリモルスキー階段の上から黒海を眺める。正面のホテルはロシア軍の攻撃を受けて大破、閉鎖された(以下、特記のないものはすべて筆者撮影)
ウクライナ南部のオデッサは、ロシア帝国時代から芸術文化都市として発展した。ロシア語の街ということもあり、開戦以降は同様の文化的背景を持つ北東部ハルキウ州や東部ドネツク州、南部ヘルソン州などから多数の避難者を受け入れている。しかし攻撃はこの地にも及ぶ。2023年に「オデッサ歴史地区」が世界歴史遺産に登録された後も、むしろ文化財を狙ったと思われる攻撃がある。親近感を持っていたロシアに攻撃されて人々は戸惑い、そして芸術を支えに、強靭な日常を取り戻そうとしているようだった。【現地レポート】

 ウクライナ第3の都市、人口約100万人のオデッサ1は、海が圧倒的な存在感を示す街である。黒海に突き出した高台に位置するからだろう。中心部のどこからでも、少し街路をたどれば視界が開け、遮るもののない海原が眼下に広がる。ウクライナやロシアの平原に住む人々にとって、海は遠い存在であり、潮風に吹かれるオデッサは憧れの地だったに違いない。現在でも、首都キーウからこの街に移り住んで老後を楽しむ人、別荘を構えて定期的に訪れる人は、少なくないという。

 ロシア帝国時代の19世紀前半以降、自由貿易港として発展したオデッサでは、多様な民族が暮らし、豊かな文化が花開いた。作家プーシキンやゴーゴリが活躍し、バイオリニストのオイストラフ、ピアニストのギレリスといった音楽家が輩出した。新古典主義の瀟洒な建築物に彩られる街並みは「黒海の真珠」と呼ばれた。

360件の損傷

 筆者にとって、ここを訪れるのは3度目である。最初は2011年で、美術館に関する取材で短く滞在した。この時は、映画『戦艦ポチョムキン』に描かれたプリモルスキー階段、いわゆる「ポチョムキン階段」も上り下りした。2度目はロシア軍全面侵攻後の2022年9月で、ロシアによって妨げられていた穀物輸出がその前月に再開されたばかりの時だった。海岸の緊張はまだまだ高く、港近くへの立ち入りは禁止され、ポチョムキン階段も検問に遮られて近づけなかった。階段の上の広場に立つロシア皇帝エカチェリーナⅡ世の像「オデッサ創設者像」は、人目に付かないようぐるぐる巻きに梱包されていた。広場に面した「エカチェリーナⅡ世」という名の安宿にこの時は宿泊した。

 今回、立ち入り規制は解除され、階段にも自由にアクセスできるようになっていた。ウクライナ沿岸からロシア海軍が放逐され、海の安全が確保されたからだろう。穀物輸出もその後順調である。広場のエカチェリーナⅡ世像はすでに撤去され、台座だけ寂しく残るが、ホテル「エカチェリーナⅡ世」の名称はそのままだった。

 前回はロシア軍の攻撃が比較的少ない時期で、晩夏のひとときを楽しむ市民で商店や飲食店はにぎわっていた。名所巡りのミニバスも運行していた。今、人影がまばらで閉まっている店も多いのは、単に季節が冬だからだろう。オデッサは寒い。気温だけ見るとキーウよりやや暖かいが、体感温度は時にハルキウ並かと思うほどである。

 オデッサはロシア軍のミサイルやドローンによる攻撃を受け続け、多数の犠牲者と甚大なる被害を出している。オデッサ市によると、損傷した屋外の文化財は、銅像も含めると360件に及ぶ。そのような脅威から文化財を守ろうと、オデッサ市や地元選出の政治家らは国連教育科学文化機関(ユネスコ)と協力し、旧市街一帯を「オデッサ歴史地区」として2023年、世界遺産に急遽登録した。ただ、その後も攻撃は止まず、むしろ文化財を狙ったと考えられるものもある。その被害状況と保護の現状をうかがおうと考えた今回、筆者は首都キーウから、夜行列車で早朝オデッサに到着した。

カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
国末憲人(くにすえのりと) 東京大学先端科学技術研究センター特任教授、本誌特別編集委員 1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員、GLOBE編集長、朝日新聞ヨーロッパ総局長などを歴任した。2024年1月より現職。著書に『ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景』(岩波書店)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)、『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『イラク戦争の深淵』『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『テロリストの誕生 イスラム過激派テロの虚像と実像』(草思社)など多数。
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