最終回 日本史とは何か――「正史」ではなく「物語」を追い求めた平泉澄
平泉澄の『物語日本史』
『少年日本史』という本がある。1970年11月時事通信社から刊行された。その後、皇學館大学出版部から同名で、また1979年には講談社学術文庫の一冊として『物語日本史』と改題の上で刊行されたこの本の著者は平泉澄である。1895年2月生まれの平泉は、1970年11月当時ですでに75歳、「児孫への最後の贈物、つまり遺書」のつもりで書いたとは本人の弁である(講談社学術文庫版、上巻「序」、5頁)。平泉が没したのは講談社学術文庫版刊行の五年後、1894年2月18日、満89歳であった。
『少年日本史』刊行の1970年といえば、教科書検定をめぐる家永第二次訴訟の第一審判決において、家永側の勝訴判決が出た年である。他方、講談社学術文庫版が刊行された1979年には『新・憂うべき教科書の問題』が刊行された。82年の第一次歴史教科書問題の導火線ともなる動きで、歴史認識問題における保守側の〈反転攻勢〉が予見される出来事でもあった。第7回連載でも見たとおり、80年代は「日本を守る国民会議」が編纂した『新編日本史』に代表される保守的な立場からの歴史教科書運動が活性化するが、そうした保守的な立場からの歴史観を表す言葉として、(主にそれに反対する側から)盛んに用いられるようになった言葉が「皇国史観」である。そして、この「皇国史観」の中心にいると目された人物こそ平泉澄その人であった(永原慶二『皇国史観』岩波ブックレット)。
では、この『少年日本史』は、「皇国史観」の名にふさわしい内容なのだろうか。神武天皇による「国家建設」からはじまり、「大東亜戦争」で終わる章立ては、まさにそうした内容を予感させるだろう。著名な政治家や知識人とそれが残した書物に焦点を当てたその間の内容構成からは、当時の「人民」や「民衆」の生活についてうかがい知ることは難しいことが推測されもするだろう。実際、冒頭には、「日本民族は、混成民族だという人があります。そうではありますまい」とあり、「日本民族」は「その最も本質的なる血液や骨格の上から考えて、独特の民族」(上巻、18頁)であるという。ここからも察せられるように、アイヌやその他のエスニック・マイノリティーに対する意識は総じて薄い。エリート史観であり、自民族中心史観であることは間違いないようである。また、歴史上の対外膨張や植民地支配についての「反省」の弁は見られない。神功皇后の「三韓征伐」については、その地政学的状況その他の「やむにやまれぬ事情」(上巻、69頁)が強調されるし、「大東亜戦争」についても「アジアの独立を招来した」(下巻、204頁)などとそのプラスの側面が語られもする。
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