大田昌秀:12年ぶりの革新県政

執筆者:野添文彬2022年8月7日
90年の知事選で西銘順治の4選を阻んだ大田=右(C)時事

 

 1980年代後半、国際的には冷戦が終結へと向かう一方で、沖縄では保守の西銘順治県政が3期12年続き、革新陣営では危機感が強まっていた。こうして革新陣営で西銘県政を打倒する準備が進められる中、次の知事選の候補者として白羽の矢が立てられたのが、当時琉球大学教授であった大田昌秀であった。 

 大田を擁立した吉元政矩(よしもと・まさのり:当時沖縄県労働組合協議会事務局長、後に副知事)は、その理由について「文字通り沖縄戦の生き残りということと、それを一つの生き様の出発として、彼がその方面での研究と勉強をしながら(中略)絶えず発言してきた」からだと回想する。大田のこれまでの人生や発言は、特に革新陣営にとって沖縄のあるべき方向性を示すものと考えられたのである。 

 大田は86年の沖縄県知事選でも革新陣営から出馬を要請されたが、研究活動を理由に固辞した。しかし90年の沖縄県知事選への出馬要請については、これまで沖縄のあり方について発言してきたことへの責任から、説得を受け入れる。90年3月、大田は定年まであと1年を残して琉球大学を退職し、4月に出馬表明する¹。 

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