大田昌秀:戦後50年の平和行政

執筆者:野添文彬2022年8月14日
平和祈念公園内の「平和の礎」(1996年撮影)(C)時事

 沖縄戦を体験した大田昌秀は、戦後処理問題の解決を重視する。そこで取り組んだのが、沖縄戦当時の八重山地方における戦争マラリアの犠牲者への補償であった。

 また大田は、平和行政の推進を重視し、1993年4月に知事公室に平和推進課を設置して、沖縄戦の教訓の継承と沖縄からの平和の発信を目指す。

 学者時代から大田は、沖縄戦の実態の解明に取り組んできた。さらに、ノルウェー出身の平和学者のヨハン・ガルトゥングが提唱した、単に戦争がないだけでなく貧困や差別、人権侵害がない「積極的平和」という概念に影響を受けてきた。

 知事となった大田は、沖縄戦の教訓を継承するとともに、冷戦後も沖縄に米軍基地が残って住民の生活を脅かし、国際的にも民族紛争や貧困といった問題が噴出する中、自身の平和への考えを行政で実践する¹

「沖縄県国際平和創造の杜」構想

 大田県政において構想されたのが、沖縄戦の最後の激戦地となった南部の糸満市摩文仁の沖縄戦跡国定公園一帯を「沖縄県国際平和創造の杜」として整備し、そこから平和の尊さを発信することであった。この構想では、沖縄県平和祈念資料館の拡充と内容の充実、「平和の礎(いしじ)」の建立、国際平和研究所の設立を沖縄県の平和行政の三本柱とすることとされた。このうち国際平和研究所の設立は未完となった。

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