“人材煩悩”と評された後藤新平

 

 後藤新平(1857~1929)の代名詞は「大風呂敷」だった。日本初の政党内閣をつくった原敬は近代日本を理解する上での第一級資料となる『原敬日記』(全6巻)を残した。この日記に最も頻繁に登場するのは、意外なことに、政党政治家・原敬とは対極にあった藩閥政治の総帥・山県有朋である。そして西園寺公望、大正天皇に次いで多いのが後藤新平だ。しかし、原の後藤評は辛辣この上ない。

 「後藤は余の見る所にては案外法螺のみにて(中略)厚顔にも哀願するかと思へば忽ち倨傲の態度を現はすものにて本日の如き余の断固たる謝絶に遭ふて彼頻りにブツゝゝ言つて別れたり」(明治43年3月16日)

 しかし、「大風呂敷」はあくまでも同時代の人たちから見た揶揄にすぎない。50年先を見通した雄大な構想だったがゆえに、理解されなかったのかもしれない。関東大震災の復興における後藤新平の発想にその典型を見ることができる。

 10万人の命を奪った1923年9月1日の関東大震災は、加藤友三郎首相が亡くなり、山本権兵衛内閣が発足する前の政治空白の中で起きた。翌2日に内閣が発足、内相として入閣した後藤は親任式を終えて帰宅するや、その夜のうちに「帝都復興根本策」をまとめた。30億とも40億円とも言われた復興案は、財源なき大風呂敷の理想論として、最終的には7億円余に規模縮小を余儀なくされた。しかし、それでもこの復興案によって今日の東京の骨格は造られた。後藤新平研究会編著『震災復興 後藤新平の120日』(藤原書店)や雑誌『東京人』の特集「生誕一五〇年 後藤新平」(2007年)から見てみよう。

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