「ヨーロッパ・クラシック帝国の忠実なる臣民」による反乱ののろし

岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)

執筆者:木村元2023年5月25日
美しい旋律に隠された「危険な本音」とは――?(写真はイメージです)

  かつて作曲家が憧れの対象であり、リーダーだった時代があった。

 大昔の話ではない。アメリカの作曲家、指揮者、ピアニストのレナード・バーンスタインが1958年から72年まで企画と司会をつとめたテレビシリーズ「ヤング・ピープルズ・コンサート」が大人気を博すと、海を越えたわが国でも黛敏郎、芥川也寸志らを案内役とする音楽番組が生まれる。いずれも音楽をある種、現代人が身につけるべき知的教養ととらえ、その代表者たる作曲家という立場から解説するものだった。彼らは音楽にとどまらぬ幅広い知見を披瀝し、洗練されたルックスもあいまってお茶の間の人気者となり、加えて自らの政治的立場を積極的に表明することで、時代のオピニオンリーダーとして大きな存在感を示した。

 はて、なぜそれほど作曲家は偉かったのか。『ごまかさないクラシック音楽』の著者、岡田暁生と片山杜秀はこう語る。

岡田 実は一九世紀のクラシック音楽は、自由とか進歩とか、そういった市民社会のイデオロギーと結びついていた。「これが分かる教養人が文明人であり市民である」みたいなイデオロギーです。

片山 分からないと文明人として恥ずかしいという意識ですね。

​(p.26)

 音楽がわかる「教養人・文明人・市民」の代表にして、その最上位に君臨するのが作曲家だという価値観が、19世紀に確立した。「音楽がわかれば、世界がわかる。音楽がわかる人こそ、文明人」──この価値観が、20世紀後半においても有効だったということだろう。そして本書はその淵源を、19世紀ヨーロッパにおける「バッハ再発見」にみる。

岡田 いずれにせよ、クラシック音楽を一つの近代イデオロギーとして見るなら、どうしてバッハが「父」なのかよくわかる。これは世界市民化プロジェクトにおける「先祖探し」というか、「ルーツ探し」だったと思うんだよね。

片山 […]そのルーツの上に、「市民」の権利である自由とか博愛とか平等とか、多くの新しい観念が乗っかっている。そして数々の束縛を克服することこそが、「市民」としての「進歩」であると考えるようになった。たとえば、複雑な和声進行を聴き分けるとか、対位法を理解するとかが、それにあたります。

岡田 対位法がわからないヤツは本当の「市民」ではない、とか。おそろしい(笑)。

​(p.27–28)

 いや、笑いごとではない。

 そもそも、このあたりの対話が収められているのは、「バッハ以前の一千年はどこに行ったのか」と題された「序章」である。著者たちは「一九世紀にヨーロッパ発のクラシック音楽は世界中の音楽を標準化して回った、端的にいえば征服した」(岡田/p.30)と断じ、「バッハ以前の一千年とは、ヨーロッパ音楽がこうした帝国主義的な野心をまだ抱き始めていなかった時代」(同)と位置づける。つまり、「音楽の父」バッハから始まる音楽史とは、ヨーロッパ・クラシック音楽の帝国主義的世界征服の実態を隠蔽するための「正史」にすぎず、そこにこそ、本書で問題にされている〈ごまかし〉があると喝破するところから、対話は始まるのである。

とどまるところを知らない〈放談〉

 その後、著者たちの対話は、バッハ(第一章)、ウィーン古典派(第二章)、ロマン派(第三章)、近現代(第四章)と、おおむね常識的な音楽史の時代区分にしたがいながら進み、そこに潜む〈ごまかし〉をひとつひとつ検証していく。

 音楽がわかれば、世界がわかる? 音楽がわかる人が、文明人?──とんでもない!

 ヨーロッパがそんな〈ごまかし〉を抱き合わせに、帝国主義的野心でもって世界中の音楽を標準化し征服した結果生まれた「ヨーロッパ・クラシック帝国の極東植民地における忠実なる臣民」(岡田/p.30)を自認する著者たちは、みずからの音楽的感性を、耳を毒してきた〈ごまかし〉を暴きだしていくのである。

 アーサー・C・クラークのSF小説『幼年期の終り』の世界観とバッハのポリフォニー音楽の類似性、核家族育ちであることがもたらしたモーツァルトの音楽の浮遊感、ベートーヴェンと地球温暖化、公衆衛生の発達とコンサートライフ、資本主義が前提とする労働力とロマン派音楽が称揚する愛などなど、思いもつかない事象と音楽との関係が提起され、半端ない熱量で語られる。

 ためしに索引の一部をランダムに切り取って参照してみよう。「ア行」の一部である。

イーノ、ブライアン
市川團十郎
一柳慧
イチロー
糸井重里
伊藤仁斎
井上道義
伊福部昭
入野義朗
​岩下志麻

 次は「マ行」の一部。

松本清張
松本零士
マニャール、アルベリク
黛敏郎
マルクス、カール
マルタン、フランク
マン、トーマス
三島由紀夫
溝口健二
​美空ひばり

 これがクラシック音楽の本の索引だろうか。

 音楽史上の作曲家を語ってはいても、タワーレコード、セゾン文化、サントリーホールなどといった固有名とともに、自分たちを取り巻き育んできた環境、自分たちが音楽ファンとしてたどってきた道程が具体的に語られる。それは、読者の多くも共有する「アイデンティティ形成の場」である。

 そう、著者たちが標的にするのは、自分たち自身なのだ。ソ連時代の芸術家よろしく、「わたしたちはヨーロッパ・クラシック帝国の忠実なる臣民として、〈ごまかし〉に加担してきました」と自己批判するのである。帝国が〈調和(ハルモニア)〉の名のもとに進めてきた音楽による植民地化にあらがうためには、自分たちがどんなふうに音楽に出会い、虜になり、どこでどうまちがって〈ごまかし〉を受け入れるにいたったのか、その「感染経路」を突き止めるしかない。

 ただし、独力では限界がある。自分の感性そのものをシャーレに乗せて、自分で観察・分析しようとしたって、どだい無理な話。だから「対話」なのである。

 「私は主流信奉の保守ブルジョワで、片山さんは主流の転覆をたくらむ革命分子」(岡田/p.318)というように、相容れぬ価値観をもつふたりが、もてる知識や経験のあらんかぎりをこの対話に注ぎ込まんとする、その意気込みたるや! そこまでしなければ、〈ごまかし〉というウイルスは自分の体内から除去できない。対話こそがワクチンであり、特効薬なのである。

 ふたりの舌鋒は勢いあまって、出版社の校閲部が容認できるぎりぎりまで踏み込み、「放談」すれすれの対話が展開される。『ごまかさないクラシック音楽』というよりも、『身も蓋もないクラシック音楽』と改題したほうがいいのではないか!?

 たとえば──

片山 なぜ、管楽アンサンブル曲といえば、フランス産が多いのか。結局、フランス革命で「軍隊」が完成したからなんですね。いまでも日本の中高生たちが管楽器のアンサンブル・コンテストで演奏するのは、多くがフランスの曲です。

岡田 高校の吹奏楽部って野球部と対だからなあ。国民総徴兵制の時代の平時訓練の名残なんていうと言いすぎかな。

​(p.159)

 言いすぎです。

片山 で、その高まりというのが、まさに性的なものと限りなく似ているわけで……揺れ動きの果てにエクスタシーに達して、ちょっと疲れたので三分間ほど寝っ転がって夢想して、また始めて、終わったみたいな……えらく下世話な話になっちゃいましたが、四楽章の交響曲なんて、だいたいそんなものではないでしょうか。

​(p.211)

 だいたいそんなもの……なのか!?

片山 戦後日本は東西冷戦の文化的決戦場で、西側の自由の神話に東側の連帯の神話が挑んでゆく。音楽だと芥川也寸志の行動はとても興味深い。

岡田 どういうことですか!?

片山 芥川は一九五四年、まだ日本と国交のなかったソ連に入っている。ウィーンから潜行した。ソ連音楽に憧れていたので、ソ連が入れてくれたという美談に当時はなったのですけれど。しかし、ソ連側が全部お膳立てしての文化宣伝戦の一環と考えないとおかしいでしょう。ウィーンからソ連に入れ、ショスタコーヴィチやディミトリ・カバレフスキーに会わせ、記念写真など撮って、さらに芥川の作品をソ連で出版している。そして最後は中華人民共和国経由で日本に帰ってくる。

岡田 へえ……。

​(p.302)

 えっ? ということは、芥川はソ連の……(以下略)。

 いや、ただたんに、受けをねらって大風呂敷をひろげているわけではない。とくに熱をおびて言及されるのはコロナ禍、そしてロシアによるウクライナ侵攻といった、現在進行形の生々しいことがらだ。

岡田 たとえばショスタコーヴィチの交響曲第五番フィナーレの金管の騒音。僕は昔、あれが生理的に嫌だった。騒音公害だと思っていた。でもマリウポリに対するロシアの攻撃などを知ると、あれは途轍もなくリアルななにかについての、本物の表現なのだと嫌でも痛感させられる。

(p.312)

 「音楽がわかれば、世界がわかる」──バーンスタインや芥川や黛といった作曲家たちがもてはやされた時代も遠くなり、クラシック音楽ファンは文明人どころか酔狂なオタクと見なされ、CDも売れなくなり、いまや音楽について語ること書くことそのものが時代錯誤と見なされかねない(この稿を書いているいま、わが国音楽界最大の話題といえば、70余年の歴史をもつクラシックのレコード専門月刊誌『レコード芸術』の休刊である)。

 そんな時代にあって、ふたりの元「忠実なる臣民」が掲げた反乱ののろしは、ヨーロッパ・クラシック帝国にとって蟻の一穴となりえるのか。

 岡田は対談をこう締めくくる。

岡田 こうやって考えてくると、「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね。

​(p.338)

 こうしてひとまずの結末をみたこの対話は、しかし、そのすぐあとに置かれた片山による「おわりに」で、痛烈な卓袱台返しに遭う。

 片山がもちだすのは、1937年に発表されたSF小説の古典、海野十三の『十八時の音楽浴』。全国民に毎日1回「音楽浴」が義務化された未来の全体主義国家「ミルキ国」では、やがて究極の総動員体制を実現するために、音楽でコントロールする必要のない無感情の人造人間が開発され、人間にとって代わる──。

 どこかで見たような光景ではないか。サブスクリプションの配信サービスによって音楽を浴びるように聴きつづけ、ヨーロッパ・クラシック帝国の忠実なる臣民として馴致されてきたわたしたち。それでは足らぬと「対話型AI」がつぎつぎに開発されて「人間らしさ」を競ういっぽう、かんじんの人間からは対話が奪われ、世界の手ざわりが喪われ、音楽への感動がしだいに色褪せていく現代。

人々の内面まで浸透するキリスト教音楽。そこから生まれながら、個々の自由な精神領域の可能性を主張して、試行錯誤するものとイメージされた、バッハ以降のクラシック音楽。その流れは第一次世界大戦の経験によって実質的に終焉したというのが岡田さんの史観の肝腎かなめと心得る。それはつまり、資本主義と共産主義という見てくれを超えて、総動員社会実現以外に未来の勝利は無いのだと人間の脳底が蒸されていく時代が到来したときクラシックは終わったということだ。

​(片山/p.342)

 この「極東植民地」のふたりの反乱分子による渾身の対話編の結論は、読者すべてに、そして後世の人類にゆだねられている。

 そのとき、音楽はまだ奏でられているだろうか。

岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)

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