歴史に学ぶ「有事の出口戦略」の論じ方(上)――戦争の「終わり方」から目を逸らした日本
2023年8月15日

最後に日本がソ連仲介に頼った根拠は、合理性ではなく「それ以外にコンセンサスが得られる政策が存在しなかった」ため[東京湾のミズーリ艦上で降伏文書に調印する全権重光葵外相。右側中央マイクに向かうのはダグラス・マッカーサー連合国最高司令官=1945年9月2日](C)時事
太平洋戦争で日本が想定した「出口」とは
太平洋戦争の終結から78年目を迎えた。連合軍の戦略爆撃により日本の国土は灰燼に帰し、沖縄では民間人を巻き込んだ地上戦が戦われ、広島・長崎への核兵器使用とソ連参戦を経たうえでの、凄惨な戦争の終わり方であった。
だが太平洋戦争を始めた当初の日本は、これとはまったく異なる出口を想定していた。日本のもともとの出口戦略は、真珠湾攻撃直前の1941年11月13日に大本営政府連絡会議が決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」にまとめられていた。同腹案が期待したのは、同盟国ドイツの勝利、イギリスの屈伏、そしてアメリカの継戦意志の喪失によるアメリカとの引き分けであった。
ドイツの敗北によって腹案が示した出口戦略が瓦解すると、連合軍に対しどこかで「一撃」を加え、少しでも日本に有利な和平を勝ちとるとする「一撃和平論」が台頭するも、一撃(最終的には本土決戦が想定された)の成功の見通しが立たないことから、最後はソ連の力にすがる。そして日本が頼ったソ連仲介策は、ソ連の対日参戦というかたちで大失敗に終わった。
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