昨年7月の安倍晋三元首相暗殺、そして今年4月の岸田文雄首相暗殺未遂と、令和の日本で物騒な事件が立て続けに起こっている。
このような世情のなか、歴史社会学者の筒井清忠氏が『近代日本暗殺史』(PHP新書)を刊行した。同書で筒井氏は、明治と大正の暗殺事件を分析するとともに、日本において暗殺に同情的な文化ができた歴史的背景についても考察している。
はたして、日本の民主主義において、そのような「暗殺の文化」はいかなる影響を及ぼしているのか――。日本近代史の研究者で、北海道大学准教授の前田亮介氏が、『近代日本暗殺史』を読み解きながら、暗殺とデモクラシーの関係について考察する。
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正攻法による「日本型暗殺史」の再構成
政治的要人の暗殺は、日本政治外交史でこれまで空白として残されてきたテーマである。井伊直弼が、伊藤博文が、原敬がもし暗殺されていなかったら、歴史はどのように変わっていたかという思考実験が、少なからぬ歴史家を惹きつけてきたにもかかわらず、暗殺を生起させた当時の日本の政治社会の条件はどのようなものだったのか、逆に当該要人の非業の死(トマス・ホッブズのいうviolent death)がその政治社会をどのように変えた(あるいは変えなかった)のか、そして暗殺と社会の相互作用の長期的なトレンドはどのような点に見出せるのか、といった問いが、正面から考察されることは皆無に等しかった。
もちろん、個別事件に関する歴史研究は蓄積があり、浅沼稲次郎刺殺を描いた沢木耕太郎『テロルの決算』(文藝春秋、1978年)のようなノンフィクションの傑作も存在する。しかし、「暗殺史」といえるほどの体系的・通時的な考察は意外なほど不在だった。
それだけに、2・26事件研究の第一人者として著名な筒井清忠氏が、昨年7月の安倍晋三元首相暗殺事件につらなる「現代的暗殺」の起源という新しい主題に挑んだ本書は、まさに待望の一冊である。「現代的暗殺」とは一体何かは後ほど触れるとして、著者が本書の対象を「現代的暗殺」の主題に関係の深いものだけに限定する姿勢を明示している点(12頁)に注目したい。あらゆる暗殺を羅列するのではなく、ある特定の(現代的な関心に訴える)暗殺史の系譜だけが読者の前に浮かび上がる周到な構成となっているのである。
たとえば、幕末には文久年間(1861~64年)だけで300件以上の暗殺が生じているが、著者は「維新内戦史の一環」(14頁)だとしてこれを除外している。また、新政府黎明期に生じた横井小楠や大村益次郎の暗殺事件も、「維新内戦史の余波」(15頁)として検討から外される。要するに本書が問うのはあくまで、目の前の安定した体制に対し、暴力による(=議会制や平和的なデモ以外の)異議申し立ての回路として選ばれた「平常時の暗殺」である。したがって、下級軍人主導による要人暗殺先行型のクーデター計画たる2・26事件(いうまでもなく、著者の十八番である)も、直接の射程からは外れることになる。
この他、安重根のような「独立運動型」の暗殺(なお朝鮮総督府が関係者の自白と拷問で引き出したものにすぎないが、寺内正毅総督暗殺未遂「事件」については、長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係』平凡社、2005年を参照)も含まれないし、また戦後まで民間右翼単独犯が多い日本では稀だが、左翼による要人(天皇・摂政)暗殺計画(大逆事件・虎ノ門事件)も入らない(ただ、福田雅太郎大将狙撃犯の和田久太郎は99頁に登場する)。たしかに、独立運動型の、また左翼による暗殺は諸外国でも見られる(ルイス・マウントバッテン卿やアルド・モロ元伊首相)ため、「近代日本社会に固有」(12頁)の類型とはならないのかもしれない。
日本型「暗殺の文化」の歴史
こうした「暗殺史」としての戦線限定の思いきりの良さが、一般に偶発的・突発的な歴史の束を体系化することに難しさが伴うにもかかわらず、首尾一貫した定点観測と200頁弱のスリムな分量を可能にした秘密だろう。そして、いざ具体的な歴史叙述となると、著者はそれまでの学術的な知見を総動員して本書の分析に厚みを加えている。
第一に、知的ルーツというべき歴史社会学である。本書が描きだすように、明治から大正にかけて要人暗殺が散発的に生じつつも、相互の影響関係を通じて次第に「現代的暗殺」の型に収斂する過程は、同時に、襲撃された要人より暗殺犯(全員男性かつほぼ若者)の側に世論の同情が集まる、いわば日本型の「暗殺の文化」(12頁)が誕生する過程でもあった。筒井史学の長年の読者なら、このフレーズから、①「天皇型政治文化」論(『昭和期日本の構造』有斐閣、1984年。『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、2014年)や、②「日本型」教養主義論(『日本型「教養」の運命』岩波書店、1995年。『近衛文麿』岩波現代文庫、2009年)、そして③「戦前型ポピュリズム」論(『戦前日本のポピュリズム』中公新書、2018年。『天皇・コロナ・ポピュリズム』ちくま新書、2022年)にいたる、歴史社会学的な分析を想起するだろう。実際、マスメディアを媒介とした大衆社会状況や「劇場型」政治の到来といった時代背景と、個人の内面的虚脱感や極端な貧富の差への不満を結びつけて「暗殺の文化」の定着を裏づける手際の妙は、本書でも如何なく発揮されている。これはまた、傾倒する思想史家・橋川文三から著者が学んだ視角でもある(筒井清忠「解説」同編、橋川著『昭和ナショナリズムの諸相』〔名古屋大学出版会、1994年〕を参照)。
第二に、筒井氏がちくま新書の歴史講義シリーズで、日本近現代史のきわめて多くの巻の編者を務め、最新の実証研究の成果を国内外に発信する前線に立っている(『昭和史講義』は英訳もされている)事実も、本書を一読するとあらためて大いに納得するところがあった。本書中、「第1章 明治編」は必ずしも氏の狭義の専門の時代ではないが、それでも著者は新旧の優れた先行研究、さらに(やはり橋川文三の示唆に基づく)同時代の「雑本」(195頁)も広く渉猟して、今日の時点でおそらく間違いのないだろう事実経緯と解釈を短い紙幅のうちに巧みに配置している。また「第2章 大正編」は、「非常に研究が遅れていることを痛感」(198頁)したものの、逆に著者の専門を存分に生かして、たとえば朝日平吾の二冊の伝記のどの記述がおそらく事実であって、どの記述がおそらく事実ではないのか、という蓋然性の検証を行っていて、説得的である。この先行研究への徹底した目配りと史料批判は、かつて「流言蜚語」的歴史叙述には退いてもらう」(『二・二六事件と青年将校』)と記したこともあった筒井氏の、史実に対する妥協のない姿勢を示している。
暗殺(史)というテーマは学界でやや異端的なものとみなされがちで、それだけに研究の蓄積も断片的で濃淡があるのはやむをえない。暗殺をめぐる史料の収集・共有も緒についているとはいいがたい。そうした困難のなか着手された本書は、短期間での連載に基づくにもかかわらず手堅い歴史研究の正攻法をとっている。後進の暗殺史家(?)が最初に手に取るスタンダードになるだろうというのが、評者の率直な第一印象である。
「明治的暗殺」と「大正的暗殺」のあいだ
さて、本書を読み解くうえで一つのポイントとなるのが、ともに「現代的暗殺」の源流と位置づけられる「明治的暗殺」(第1章)と「大正的暗殺」(第2章)のあいだの連続と断絶だろう。
前者では、赤坂喰違の変=岩倉具視暗殺未遂事件(1874年)、紀尾井坂の変=大久保利通暗殺事件(1878年)、板垣退助岐阜遭難事件(1882年)、森有礼暗殺事件(1889年)、大隈重信爆弾遭難事件(1889年)、星亨暗殺事件(1901年)の6つの例が、また後者では、朝日平吾事件=安田善次郎暗殺事件、原敬首相暗殺事件(いずれも1921年)の二つの例がとりあげられている。ただ、前者が6例で50頁弱に対して、後者は2例だけで110頁超にもおよぶ分量を占めており、全体の重点は明らかに大正に置かれている。
先に述べたように、本書は個別の暗殺をアドホックに並べるのではなく、複数の暗殺類型のせめぎあいからひとつのパターン――昨年7月の選挙期間中の銃撃犯が、家庭的な事情による復讐感情から暗殺を計画するものの、ターゲットを当初予定した教団トップから元首相に急転させたような「現代的暗殺」の原型――がせりあがってくる構成をとっており、その点でもこの大正期シフトは論旨を支える役割をはたしているといえる。
まず「明治的暗殺」と「大正的暗殺」の連続面は、暗殺者に同情的な世論の存在である。とくに旧幕臣や自由民権運動の関係者が集ったことで、新しいメディアとしての新聞には反藩閥や判官びいきという野党的な気質が明治の初期から強かったこと(189頁)、すでに大久保暗殺直後から、新聞記事をもとに犯人島田一郎を主人公とする戯作が人気を博し、人々の墓参もはじまっていたこと(21-22、43頁)を著者は指摘している。
さらに草創期の議会政治や政党政治に従事した人々にさえ、暗殺容認論は広まっていた。星亨暗殺犯の伊庭想太郎は犯人で珍しい50歳の年配者(当時としては)で、かつ事を成しとげた後に死亡していないため自己犠牲性も乏しく、本来なら世論の同情を集めにくい属性だった(ただ、著者は五稜郭で早世した兄・八郎の青年剣士イメージが作用したことを付言する)が、それでも田口卯吉は伊庭に「士気の凛冽」を見出して暗殺が「必ずしも世に裨益なしとすべからざるべし」と批評し、また中江兆民も没後刊行された遺稿集では、「悪を懲らし、禍を塞ぐ」点で「社会の制裁力」たりうる暗殺に相応の必要性を認めていた(59-60頁)。
「暗殺」への寛容と擁護
そもそもターゲットとして襲撃されるも生き延びた当の政治家が、暗殺に寛容であった。板垣退助は刺客(相原尚褧)への特赦を明治天皇への上表で実現させており、のちに本人と面会した際も、こうした当事者間の握手と談笑は歴史上に例がなく、史家の記録に値すると誇っている(33-34頁)。また大隈重信も、(爆裂弾の音も含む)「波瀾」を国民が忘れてしまうような「老成」は「一国一社会をして、その元気を阻喪させる大害物」であると、自害した来島恒喜の「元気」を悼む姿勢を公的に示しつづけたのである(53頁)。
板垣も大隈も単にパフォーマンスや保身から「暗殺者の真情」を擁護しただけではなく、政治社会の「士気」「波瀾」「元気」が復元される契機として暗殺を歓迎するような価値観をある程度内面化していただろうことが、本書の記述から窺える。これは庶民やメディアと同じような「同情的文化」というより、「国士」の「公憤」(54頁)に社会秩序の再活性化の機能をみる維新経験者の心性だったかもしれない。こうした士族意識に媒介されて和解にいたる暗殺者と被害者の「信頼」(190頁)はまた、筒井氏が橋川文三の議論を承けて析出した「内面的志向のテロリズム」という日本のテロルの特徴を想起させる。すなわちそこでは、他者殺害は自己犠牲と同一化し、殺す者と殺される者は永遠の相のもとで区分を失って「一種不可思議な共生関係に入る」。徹底したニヒリズムに駆動されたナチスのテロルなどと対照的な「政治と人間についてのラジカルなポエジー」に暗殺の過程が規定されることで、「政治的暗殺は政治の世界の出来事というよりある心理の自己実現の契機としても捉えられ」ていく(筒井「解説」橋川文三『歴史と危機意識――テロリズム・忠誠・政治』中央公論新社、2023年)。これは大正期以降を念頭においた指摘であるが、政治的利害から離れた暗殺を通じて自己実現と共生が回復されるメカニズムは、士族や「国士」・「志士」(36頁)のメンタリティに駆動された「明治的暗殺」にも敷衍することが可能だろう。
なぜ日本政府は刺客を放たなかったのか
しかも、「現代的暗殺」の一源流としてのこの「明治的暗殺」の「構造」(著者の第一作のタイトルを借りれば)が、決して維新後に自明に生まれたわけではなかった機微を、本書の叙述はとらえている。
たとえば、板垣退助遭難事件が、政府の刺客の仕業と当初誤認され、自由党の地方支部から岐阜に駆けつけた応援部隊は「慷慨切歯」し、上京の上「刺客等放つならん」などといった不穏な事態も予測されたことは興味深い(29-30頁)。近代日本では、政府が刺客を派遣して国内の政敵や政府批判者を暗殺した例はないからである(国外では閔妃や張作霖のような「標的殺害」(targeted killings)にはあまり躊躇がなかったようであり、また国内でも甘粕事件や当時未遂に終わった知識人襲撃などはやや微妙であるが)。同じ東アジアでも閔妃政権が金玉均を、袁世凱政権が宋教仁を暗殺したのを考えれば、日本政府だけがなぜ「刺客派遣型」暗殺に頼る必要がなかった/頼れなかったのかは、今後検討に値する論点だろう。ただし、1882年の日本では未だ「政府刺客説」がリアリティをもって(板垣・後藤象二郎まで含めた)当事者から認識されていたのである。
その意味で、日本暗殺史が「維新内戦史」の段階から、「明治暗殺史」の段階に移行する転機は、必要となれば民権派も武器を持ってたちあがるという士族反乱期の余韻が完全に失われ、帝国議会開設が具体的な政治日程にのぼる大同団結運動の時代に生じた大隈・森の襲撃であり、これと星の3例が典型的な「明治的暗殺」だったといえるだろう。逆に前半の3例、とくに岩倉・大久保襲撃の2例については、「維新的」ないし移行期的と位置づけるべきかもしれない。来島、西野文太郎(森有礼暗殺犯)、伊庭の多分に心情的・道徳的・個人的な行動原理に比べると、岩倉・大久保襲撃犯は不平士族らしく、集団として一定の政治プログラムを有しており、暗殺は「自己実現」の目的以上に、プログラム実現の手段だったと評者は考える(実はこの推測は、著者の『昭和期日本の構造』に収録された二つの画期的名論文「日本型クーデターの構想と瓦解――二・二六事件研究Ⅰ」と「日本型クーデターの政治力学――二・二六事件研究Ⅱ」(初出はそれぞれ1977年・1983年)からヒントを得たものである)。
実際、岩倉襲撃グループは征韓論で下野した元官吏の土佐人で、芝増上寺・浅草寺の放火による騒乱工作に手を染めており(15頁)、島田一郎らの暗殺リストには大隈重信も入っていた(23頁)。暗殺の範囲と優先順位をめぐる複数の選択肢が議論されていたことが、推測されよう。ただちに自首したとはいえ、島田の「斬奸状」も自己の正義に殉じるというより、「公議」の擁護や「不急の土木」批判があるように(18頁)、政府内外の非主流派から呼応者が出ることを期待していた節もみられる(実際、大隈重信・伊藤博文ら政府首脳とこの後対立する元田永孚ら天皇側近グループは、島田の殖産興業批判を錦の御旗として「勤倹論」を展開する)。いかに非合理なファナティックスではあれ、岩倉・大久保襲撃グループにはおそらく政治的打算の感覚があり、それは「維新内戦史」との連続を意味する。
しかし、大久保が夢見た明治維新「第二期」の1880年代(19頁)、政府では内閣制導入、憲法制定、軍・警察の近代化などの制度化を、政府の取締りを受ける政党も議会制にむけた組織化を進め、この構図のもと暗殺は通常の政治過程の外部に追いやられていく。ここに、腐敗や売国といった「公憤」に突き動かされた個人の暴力的な異議申し立てが、「国士」的論理で広く正当化される「明治的暗殺」の時代がはじまるのではないだろうか。
「暗殺者」の心のうちに潜む個人的行き詰まりと「公憤」
では、このような帝国議会開設前後に姿をあらわす「明治的暗殺」の「構造」は、大正期にどのように変化することになるのか。世論の同情的文化については、著者は明治と大正のあいだに有意な差を見出しておらず、むしろ前近代(ときに古代・中世)以来の日本列島を貫く「文化的バックグラウンド」(188頁)を強調しているので、ここでは、本書が明確に断絶を認めている点にしぼって議論を進めたい。
筒井氏の描く基本的な構図は、明治期には条約改正阻止をめざした来島が典型的なように「明確な政治的目的のもとに対象が選ばれる純然たる政治的理由による暗殺」(97頁)が中心であり、また襲う方も襲われる方も一種の「礼儀」(55頁)を共有した「士族中心的」(190頁)だったのに対し、大正期には天下国家や立身出世主義に代わって個人的・実存的問題こそが暗殺のトリガーとなる、というものである。著者によれば、大正期以降の「現代的暗殺」者たちは、表面では天下国家問題を掲げていても、それに先行して家庭的不幸などからくる何らかの個人的行き詰まりが「必ず存在」していた(192頁)。その内面的な虚脱感を埋め合わせるべく、彼らはマスメディアや大衆社会の反応を敏感に意識しつつ、同時にそこで鼓吹される政治腐敗と社会的不平等のような内在的には関心の薄い争点に動員され、やがて暗殺対象へと意識を集中することになるのである(101-102、172-174頁)。
実際、「成功青年」「堕落青年」「煩悶青年」、そして「政治青年」という全類型を試みた朝日平吾の原動力は、著者によれば何物にも満たされないという絶望的ニヒリズムであり、また中岡艮一は白樺派とトルストイを愛する恋愛至上主義の文学青年で、(未遂に終わる)暗殺を決意したきっかけも、懸賞脚本の当選による結婚の夢が破れた絶望感と、悪名高い原の暗殺による「名声」獲得欲にあった(171頁)。とくに中岡の真の動機について著者は、「被告は志士として一世を震撼せしめ、名を後世に残すに足るべしと思惟するにいたった」とする判決文にも、また中岡本人の自己言及にも現れるような「国士的政治青年」(108頁)のイメージの相対化に意を払い、それはかなりの程度成功していると思われる(新聞社が持ち去った「恋の艮一」日記をめぐる顛末も興味深い)。中岡の訊問時の「憂国の志士気取り」(133頁)や、実際に本人の「硬派的パーソナリティ」も構成した明治暗殺史を家庭で語る厳格な父親の影響(143-144頁)といった、天下国家論の表層性という自説にいわば不利な情報も含めて検証しているため、新しい中岡像として魅力的かつ説得的である。
しかし同時に、本書の朝日像・中岡像のはなつ強い魅力と説得力にもかかわらず、これらは「中間の時代」としての特殊「大正的暗殺」であり、「現代的暗殺」とのあいだにはなお少なからぬ径庭があるのではという感覚を、評者が覚えたのも事実である。
そう感じた理由の第一は、表層ではなく深層においても天下国家的ないしイデオロギー的「公憤」に駆られた「明治的/国士的暗殺」の類型は、「大正型」の挑戦にもかかわらず、20世紀の日本暗殺史の主役の一つであったように考えるからである。たとえば、佐郷屋留雄をはじめ、右翼(暴力団)単独犯による殺意を備えた要人襲撃については、実存性・内面性とは別の指標が必要ではないだろうか。いいかえれば、朝日平吾の磁場(「直接的後継者」(179頁)とされる血盟団員をはじめ)を暗殺史上に読みこみうる臨界点は、どこにあるのだろうか。中岡の恋愛事情が、大正期にセンセーショナルに論じられたにもかかわらず、1930年代には忘れられたことも(180頁)、「大正型暗殺」が主流化する前に、なにか別の異質な暗殺の論理が台頭してしまったという推測も抱かせる。
そして「昭和の暗殺の時代」へ
この点は、理由の第二である「昭和前期の暗殺の時代」(178頁)への接続の問題とも関わってくる。著者はここでも朝日平吾による(暗殺後の)社会改造的ヴィジョンの影響を読みこみつつ、同時に「個人の暗殺を軸とする」血盟団事件、5・15事件と、「軍事クーデター」たる2・26事件の性格を区別し、しかも5・15事件も計画初期はクーデター志向だったことを最新の研究から示している(同)。この(集団的・組織的暗殺を伴う)クーデターの台頭は、日本暗殺史のなかでどのように位置づけるべきなのだろうか。
ここで参考になるのは、筒井氏の『昭和期日本の構造』を刊行当時きわめて高く評価したある書評が述べた、暗殺者たちの行動原理をめぐる次のような評言である(強調は前田)。
筒井がここでおこなった作業は、一言でいえば、2・26事件が、国家権力の争奪をめぐって目的意識的に展開される政治的行動の世界(そこでは、各登場人物は原則として所与の主体的・客観的な条件の下で、自己の目的達成のために最適の手段を選択して行動するものと前提されている)の「論理」で、十分に「割り切れる」ことを、あるいはこの「世界」の「基底」をなしている「関数族」によってきれいに「級数展開」できることを示すことであった。(永井和「テクストの快楽――筒井清忠著『昭和期日本の構造』についてのノート」『富山大学教養部紀要 人文・社会科学篇』19(1)、1986年)
本書では、暗殺を「政治における非合理的要素を最も拡大させる近代自由民主主義政治の最大の障害物」(13頁)と定義しているが、実はそうした(日本に限らず)暗殺が普遍的にもつ攪乱性について、①(自我の不安定度の違いこそあれ)建前上「国士」を掲げた個人による「明治型暗殺」―「大正型暗殺」の世界と、②ラショナル(合理的)に効用最大化をめざす集団による「政治的行動の世界」の場合分けも可能かもしれない。2・26事件は実際は最もクレバーな将校にさえ「改造主義」と「天皇主義」が同居しているというのが筒井氏の創見なので、②に完全に該当するかは微妙だが、幕末とともに①と②の中間項と位置づけられる。評者の言葉でいえば、政治過程の外部から暗殺を通じた自己実現を目的とするのが①であり、逆に政治過程の内部において問題解決の手段として暗殺を利用するのが②、となる。
もっともこの場合分けは、日本政治外交史の説明として、本書の枠組みの正しさをむしろ裏側から証明している。なぜなら、政治過程内の手段としての政敵暗殺は、幕末と1930年代を除いてほとんど生起せず、今日まで多くの暗殺が(「明治型」か「大正型」かは別として)強い道徳的規範(虚偽意識も含め)に方向づけられた個人の犯行であり、そのような暗殺が主流化したからこそ、「同情的文化」もまた強化の一途をたどったからである。
幕末に暗殺される恐怖におびえていたことを『福翁自伝』で告白した福沢諭吉は、『学問のすゝめ』の第6編(1874年)「国法の貴きを論ず」で日本政治における自力救済の横行を厳しく戒め、「私裁」あるいは「敵討」が横行する社会では「文明」が実現しないと述べた。そして、自力救済のうちで一番忌むべき対象を、政敵(「ポリチカルエナミ」)の暗殺に見出した。もちろん福沢は、日本で伝統的に貴ばれた「忠臣」(楠木正成)や「義士」(赤穂浪士)に対しても、暴力によって正義に殉じるものと厳しく批判していたものの、最も恐怖の対象だったのはやはり政敵暗殺、そして内乱(to fight among Japanese)だったのである(河野有理「暗殺と政治」『福澤手帖』194、2022年)。
ただし、『学問のすゝめ』の秩序構想を構築していた福沢にとっての歴史の皮肉は、その後の日本暗殺史が、怨嗟や復讐の対象ではなく権力獲得をめぐる競合の対象としての政敵の暗殺は2・26事件を除いて起こらず、むしろより下位に見ていただろう「義士」(「国士」)型にほぼ収斂していったことである。それは朝日平吾事件への吉野作造の言葉を借りれば、「不義を懲らすためには時に一命をすてて惜まない」という日本の青年に伝統的な危うい「古武士的精神」(96-97頁)が、それぞれの時代の文脈で変奏されつつ発露していく過程でもあった。政治的な競合者や権力者からすれば、ときに最も合理的な「排除」といえなくもない政敵の暗殺は、なぜ日本政治史上で起こらなかったのか。そしてそのことは、日本のデモクラシーにとってどのような意味をもつのか。最後に考えたい。
極私的な暗殺と現代日本のデモクラシー
戦前/戦後日本の議会制民主主義では、暗殺は基本的に外部化されており、クーデターや政府機関による暗殺の回路が開かれることは稀であった。しかし、戦前には突発的に生じる暗殺がその都度世論の同情を集めることで十分処断をされず、結果として政治社会の不安を大きく増幅させた。労働農民党の衆議院議員・山本宣治が右翼団体の男に刺殺された事件(1929年)も選挙の正統性や民主主義そのものへの根深い不信をうかがわせるものである。他方で、戦後の日本には戦前ほどの同情論はおそらくなかったにせよ、暗殺自体がごく間欠的にとどまり、また暗殺が政治や経済の不安定化もほとんど惹起しなかったことで、個々の事態が議会制民主主義にもつ重大性(たとえば、浅沼社会党委員長刺殺、長崎市長への二度の銃撃など)が世論から早期に忘却されている印象は否めない。おそらくその一因は、暗殺の多くが極私的な(義憤や憎悪を原動力とする)暗殺であって、党派間の競合(158-159頁)とは連動しなかったからである。
安倍元首相の事件をはじめ、選挙期間中の候補者襲撃は動機を問わず国民が何より警戒すべきものであるが、実は候補者への襲撃自体が選挙デモクラシーの定着だという議論もある。ナショナリズム論で著名なベネディクト・アンダーソン氏が1990年に『ニュー・レフト・レヴュー』に発表した論文「現代シャムの殺人と進歩」(糟谷啓介ほか訳『比較の亡霊――ナショナリズム・東南アジア・世界』作品社、2005年)は、軍の独裁を脱した1980年代のタイでプロの殺し屋による国会議員の暗殺が頻発したことを、議会制民主主義の安定として位置づける逆説的な議論を展開している。すなわち、国会議員が暗殺のターゲットになるのは、国会議員の制度が市場価値を備えて争奪の対象となった証左であり、民主主義の安定には一面で、人々が議員になるためなら殺しあいも厭わない姿勢が必要なのである。
また2000年代におけるフィリピンの地方政治では、選挙での政敵暗殺が頻発する地域が存在していたことを、比較政治学者の川中豪氏が明らかにしている(川中豪「政治暗殺」『IDEスクエア海外研究員レポート』2007年)。仮に有力な政敵を強制的に退場させ、しかも有罪判決を回避し、住民の投票行動もコントロールできるなら、コストを払うことなく「勝者総取り」を実現でき、暗殺のインセンティブが強まる。「究極の選挙不正」たる政敵の暗殺は、選挙による権力の獲得にむけたデモクラシー下の政治戦略でもあるのである。
幸い日本の近現代史では、上からの暗殺も水平的な政敵の暗殺も不在であり、政治社会における暗殺のいわば飼いならし方を学ぶ機会の習得には恵まれなかったのかもしれない。他方で、それはおそらく、日本の民主主義が多くの問題を抱えつつも、暴力の管理の点では戦前も戦後も相応に「成功」してきたことのコインの裏返しでもあった(凄惨な例外というべき関東大震災時の朝鮮人虐殺に対しても、吉野作造や衆議院議員から厳しい批判と検証の目が向けられたことは好例である)。しかしいまや、暗殺を極点とする政治暴力の行使は、先進諸国の民主主義内部にも浸潤しつつあるかのように見える。そのなかで、朝日平吾や中岡艮一の暴力激発の普遍性を読み解きつつ、「日本の『暗殺文化』に関わる『伝統』を知りながら、暗殺そのものは否定する文化をどう作り上げていくか」という難問(192頁)に挑んだ著者の姿勢は大きな希望であろう。「暗殺の文化」への歴史的沈潜を通じて、現代日本のデモクラシーにおける「暗殺そのものは否定する文化」の創出と定着に資そうとする本書の「昭和戦前編」が待ち遠しいのは、評者1人ではないはずである。
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