1992年当時、外務省には中国に言論の自由が拡大すると人民の反日感情があふれ出すという警戒感が存在した[釣魚台国賓館での晩餐会を前に江沢民総書記(右)と握手をする天皇陛下=1992年10月24日、中国・北京](C)時事

 外務省は2023年12月20日、1992年10月の「天皇訪中」に関する外交文書を公開した。戦後日中関係史において1972年の国交正常化と共に、時の総理の政治決断力が問われたエポックメーキングだ。前のめりになって天皇訪中に急ぐ外務省に対し、自民党内では反対・慎重論が拡大し、宮澤喜一首相はぐらぐらし、決断を下せなかった。自民党有力者への説得も官僚任せになり、「政治」と「官僚」の乖離と軋轢が生々しく記録されている。

 天安門事件を受けた人権問題、尖閣諸島問題という現在の日中関係にも横たわる懸案を事実上棚上げしたまま、天皇訪中を強行した歴史はどう評価されるべきか。

※〈  〉内は外交文書からの引用、〔  〕内は筆者による追加、肩書は当時。なお、文書中の誤字脱字および一般には馴染みのない特殊な表現等は適宜修正した。

“日本のキッシンジャー”橋本恕

 天皇訪中の主役は、伝説の「中国通」外交官・橋本恕(1926年~2014年)。

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