第5回 フルシチョフ 帝国の攪乱者(前編)
2024年5月26日

フルシチョフ(左)とスターリン(1937年1月、Wikimedia Commons)
1963年のある日、モスクワのシチューキン名称演劇大学は湧いていた。学生たちの卒業制作「セチュアンの善人」が見事な出来だったからである。善人が救われるためには悪事を尽くすしかないというドイツの戯曲家ブレヒトの寓話劇を観るために、小説家のエレンブルグやバレリーナのプリセツカヤをはじめ大勢の文化人がやってきた。政権の最高幹部の一人であるミコヤンすら足を運び、「これは学生演劇ではないね。劇場になるだろう、それもとても独特な」と誉めたという。学生たちを指導した先生は、レーニンの葬式で頬を赤くしていたユーリーである。実際彼は翌年4月には教え子たちを率いて、挑戦的な作風で知られるタガンカ劇場を旗揚げするのだ1。
それにしても、現実離れしたコルホーズの豊穣を讃えていた1940年代のソ連芸術と比べて、この様変わりはどうしたことだろうか。いまや芸術家も、多くの市民も、それに一部の政治家でさえも、「社会主義建設の偉大な勝利」のような仰々しい言葉ではなく、自分たちの内面の迷いやためらいを探るような表現を求めていた。こうした変化が起こったのは、ソ連の指導者が1950年代半ばに代替わりしたことと結びついていた。クレムリンのあらたな主は、スターリンが育んだ規範を根底から覆そうとしたのである。帝国の攪乱者、フルシチョフの登場である。
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