
フルシチョフ(左)とスターリン(1937年1月、Wikimedia Commons)
1963年のある日、モスクワのシチューキン名称演劇大学は湧いていた。学生たちの卒業制作「セチュアンの善人」が見事な出来だったからである。善人が救われるためには悪事を尽くすしかないというドイツの戯曲家ブレヒトの寓話劇を観るために、小説家のエレンブルグやバレリーナのプリセツカヤをはじめ大勢の文化人がやってきた。政権の最高幹部の一人であるミコヤンすら足を運び、「これは学生演劇ではないね。劇場になるだろう、それもとても独特な」と誉めたという。学生たちを指導した先生は、レーニンの葬式で頬を赤くしていたユーリーである。実際彼は翌年4月には教え子たちを率いて、挑戦的な作風で知られるタガンカ劇場を旗揚げするのだ1。

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