悪党たちのソ連帝国
悪党たちのソ連帝国 (10)

第10回 アンドロポフ 帝国の矯正者(後編)

執筆者:池田嘉郎 2024年10月27日
タグ: ロシア
エリア: ヨーロッパ
アンドロポフ(1980年撮影、Wikimedia Commons)
かつてのソ連に君臨した6人の悪党たちの足跡から、ロシアという特異な共同体の正体を浮き彫りにする好評連載第10回。ブレジネフ時代の末期、KGB議長アンドロポフが進言したアフガニスタン侵攻によって東西デタントは吹き飛んだ。ブレジネフの死に伴い権力を握ったアンドロポフは、綱紀粛正を進めつつ若手のゴルバチョフを登用する。

4. 最高指導部にて

アンドロポフとブレジネフ

 1974年末までにブレジネフの健康状態はかなり悪くなった。68歳の書記長は席から立ち上がるのもやっとで、なかなか呼吸が静まらず、耳も遠くなった。この頃アンドロポフは軍事畑の重鎮ウスチーノフに、「ブレジネフを仕事から徐々に引退させるための、何かソフトで痛みのないやり方を見つけねばならないときでしょうね。このような状態でこれからも国を司り続けるのは、彼にはすでに身体的に不可能です」と語っている。翌75年には書記長は重い心筋梗塞に襲われ、奇跡的に命を回復した。それでもブレジネフは引退しなかった。書記長の老いと並行して党指導部では勢力争いが展開した。外務大臣グロムイコ、国防大臣ウスチーノフ、KGB議長アンドロポフは緊密に連携して、ブレジネフに忠実であり続けた。イデオロギーを管掌するスースロフは誰ともつきあわず、積極性も発揮しなかった。コスイギンは首相として経済省庁を束ね、テクノクラート閥の代表のような立場にあった。第二位の共和国であるウクライナを治めるシチェルビツキーは、誰とも均等につきあうべく努めた1

 党機構に権力基盤をもつものと、行政機構に権力基盤をもつものの争いは、かつてフルシチョフとマレンコフの間でも見られたが、ブレジネフとコスイギンの関係もそれと似ていた。アンドロポフはブレジネフを擁護してコスイギンと対抗したが、それは社会主義イデオロギーを純粋に保つというKGB議長の使命に照らしたとき、コスイギンと彼が束ねる経済省庁幹部の姿勢には、思想以上に経済効率を重視するところがあったからだといえる2。総じてアンドロポフは、ブレジネフが親近感をもっていない全ての人々(コスイギン、それに1970年代初頭までウクライナの大物であったシェレストなど)に否定的な態度をとった3

 とはいえ、アンドロポフとブレジネフの関係も単純ではなかった。書記長ブレジネフは州党第一書記をはじめとする党・国家官僚の地位の保全に配慮した。そのことは、それぞれの地方や官庁で小規模なボスを生み、彼らによる地位の濫用を誘発することとなったのである。綱紀粛正を求めるアンドロポフの捜査の手は、コスイギンに連なる経済官庁の幹部だけではなく、ブレジネフが庇護する人々にも及びかねなかった。

 実際、1977年に検察庁とKGBは漁業省を調査して、収賄容疑で漁業次官を逮捕した(のち死刑)。漁業大臣も引退を余儀なくされた。さらなる捜査によって、クラスノダール地方のソチ市の執行委員会議長や地方党書記も逮捕された。彼らの庇護者である党地方第一書記メドゥーノフも逮捕されそうになった。だが、メドゥーノフはブレジネフの友人であった4。アンドロポフはブレジネフへの電話報告において、メドゥーノフを逮捕して告訴すべきだと述べた。これに対してブレジネフは長く沈黙し、重いため息をついたのち、「それはだめだ、ユーラ」と答えた(ユーラはアンドロポフのファーストネーム・ユーリーの愛称)。ブレジネフによれば、メドゥーノフは大きな組織の長であり、人々は彼を信じてつき従ってきた、そうした人物を果たして告訴できるだろうか、「われわれは一人の不誠実な人間によって、良い地方全体を冒涜することになる」。ブレジネフは彼をどこかの省庁の次官に移すことを提案した。実際、メドゥーノフは青果物栽培省次官となり、アンドロポフの追及はやんだ5

 KGBとブレジネフ周辺の人物との関係は、これだけでは終わらなかった。次の焦点となったのはブレジネフの娘ガリーナである。父ブレジネフを通じて宝石の価格引き上げの時期を知ることができた彼女は、モスクワ・エリートの間にあった宝石転売ネットワークの重要人物であった。このネットワークには犯罪マフィアも関わっていた。1982年初頭、宝石強盗の組織者としてブリャーツェという人物がKGBにより逮捕されたが、彼は「ロマの男爵」と仇名されるロマ歌手で、ガリーナと親密な関係にあった(彼女はブリャーツェをボリショイ劇場のソリストにしてやった)。事件を担当したブレジネフ配下のKGB第一副議長ツヴィグンは、1月19日に自殺した。事件の重大さに耐えきれなくなったからか、別の理由があったのかは不明である。これによりアンドロポフが直接に事件を担当することになった。KGBは1月29日にガリーナ周辺の複数の人物を逮捕し、彼女自身もアンドロポフによってKGBに呼び出された。アンドロポフは彼女の収入源を問い質した可能性があるが、これは彼女の夫である内務次官チュルバーノフの身辺捜査につながりかねなかった。チュルバーノフの人脈は、さらに内務大臣シチョロコフともつながっていた。シチョロコフはブレジネフとモルダヴィア共和国でともに仕事をした仲であり、シチョロコフの息子はチュルバーノフの友達であった。チュルバーノフを7歳年上のガリーナに紹介したのもシチョロコフの息子である6

 だが、アンドロポフはこれ以上内務省人脈の捜査を進めることができなかった。事態を転回させたのは、事実上党内ナンバー2の地位にいたスースロフの死(1982年1月25日)である。アンドロポフを徐々に新ナンバー2の地位につける、そのかわりにKGB議長の職から離れてもらうという妥協が成立したのである7

アフガニスタン侵攻

 この間にもブレジネフの老いは進行した。あるときグロムイコはアンドロポフと合意して、ブレジネフにこう示唆した。「あなたはどうにかしてご自身の健康を大事にすべきではないですか。それに、然るべき注意が払われなければ、大きな危険と結びつくかもしれませんよ」。この引退の示唆に対してブレジネフは沈黙で応じ、別の話題に移った。グロムイコとアンドロポフは、ブレジネフが自分の地位の変更について考えていないのだろうと受け止めた8

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
池田嘉郎(いけだよしろう) 1971 年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士(文学)。専門は近現代ロシア史。主な著書に『革命ロシアの共和国とネイション』(山川出版社、2007 年)、『ロシア革命 破局の8か月』(岩波書店、2017 年)、『ロシアとは何ものか―過去が貫く現在』(2024年、中公選書)、共著に『世界戦争から革命へ (ロシア革命とソ連の世紀 第1巻)』(岩波書店、2017年)、訳書にミヒャエル・シュテュルマー『プーチンと甦るロシア』(白水社、2009年)、アンドレイ・プラトーノフ『幸福なモスクワ』(白水社、2023 年)などがある。
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