
4. 期待と失望と
反アルコール・キャンペーン
ゴルバチョフ政権が発足後すぐに着手した施策に、反アルコール・キャンペーンがあった。労働現場ばかりか党委員会でも飲酒は蔓延していたから、キャンペーンをやる根拠はあった。労働規律の向上や国民の健康改善という目標も間違いではなかった。だが、ゴルバチョフに準備を任されたリガチョフは、禁酒法の導入という行政的手段によって、一気に問題の解決を目指した。当時書記であったルイシコフは、飲酒は多面的な社会問題であるので性急な方法をとってはならないし、禁酒法のもとでは密造酒が広まり、原料である砂糖の消費量も増えて供給が追い付かなくなると指摘した。チーホノフ首相やアリエフ第一副首相も税収が減るのでアルコールの販売削減に反対した。だがゴルバチョフは、いかなる手段に頼ってでも国の道徳的雰囲気を救済すべきだというリガチョフの側に立った。
1985年5月7日採択の閣僚会議決定によって、蒸留酒は3億リットル、ワインは2億リットルずつ年間生産量を減らし、果実ワインは1988年以降生産を停止することになった。ビールは規制の対象から外れた。1985年後半にソ連全体で酒店の数は55%減り、23万8000から10万8000店舗になった。州によってはもっと激しく酒店が閉鎖され、アストラハン州では118から5になった。1986年後半からいたるところで砂糖や菓子やジュースが密造酒の原料に使われ出した。砂糖の販売量は1985年から87年までに18%増大し、配給券が導入された。同様の理由でオーデコロン、歯磨き粉、糊、靴用クリームの需要も増加した。密造酒に関わった咎で、1987年には50万人が何らかの責任を問われた(1985年の5倍)。

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