第6回 フルシチョフ 帝国の攪乱者(後編)
2024年6月23日

キューバのフィデル・カストロ首相(左)と手を取り合うフルシチョフ・ソ連共産党第1書記[モスクワにて、1963年5月1日(肩書はともに当時)](C)AFP=時事
3. スターリンのいないソ連
フルシチョフの権力闘争
スターリン死後、幹部会ビュローは直ちに廃止され、モロトフとミコヤンを含む従来の政治局の構成が復活した(名称は「幹部会」のまま)。モロトフ夫人ジェムチュージナも解放された。マレンコフが首相(従来はスターリン)となり、ベリヤが内相となり、モロトフが外相に復帰し、ブルガーニンが国防相となった。フルシチョフは党書記として「中央委員会の仕事に集中する」と発表された。1953年3月14日にはマレンコフが党書記の仕事から離れ、フルシチョフが党書記局で指導的役割を得たが、これは必ずしもフルシチョフの権限強化を意味しない。むしろ、今後はソ連政治の中心は政府・行政機構が果たし、党機構はそれをサポートするという構図が示唆されていた1。
とはいえ、マレンコフは閣僚会議を掌握していたものの、個々の省庁は縦割り行政で組織されているので、彼がすべてを動かすことはできなかった。これに対してフルシチョフには全国的な党機構に依拠しているという強みがあった。もう一人、ベリヤも全国的な治安機構網を掌握していた。ここからフルシチョフとベリヤの競争が、当面の対立軸として浮上する2。
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