「虐殺の街」その後――ブチャ・イワナフランカ通り再訪
2024年6月30日

ブチャの共同墓地に設けられたシャピロ家の墓と一家の肖像写真[左からウォロディミル、テチャーナ、アンドリー] (筆者撮影、以下すべて)
2022年2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まって以来、筆者のウクライナ訪問は今回で6回目となる。最初の1回は侵攻後間もない2022年3月で、主に西部の街リヴィウでの滞在にとどまったが、以後は毎回キーウを拠点とした。そのたびに訪ねたのが、虐殺の舞台となった首都郊外ブチャのイワナフランカ通りである。
ロシア軍がキーウ周辺から撤退した直後の同年4月、ブチャを3度訪問し、虐殺に関する証言を収集した。街外れに位置するその通りにも、この時初めて足を踏み入れた。ただ、当時はまだ、虐殺の規模もその位置づけも、明確ではなかった。路上に遺体が転がる「死の通り」ヤブロンスカ通りの映像は衝撃を伴って世界に広がったが、筆者も恐らく他のジャーナリストらも、戦争に伴う悲惨な被害の中の1コマと受け止めていた。
6月、キーウを再訪するころには、欧州各国で「ブチャ後」との言葉が使われるようになっていた。ブチャ虐殺は、この戦争を象徴する出来事として位置づけられるようになった。欧州各国が危機感を抱いたのは、この虐殺が戦闘のさなかでなく、両軍が膠着状態に陥った際のロシア側占領地で起きたことだった。それまでの北大西洋条約機構(NATO)の対ロ戦略の基本は、「もし攻められても反撃して領土を奪い返せばいい」だった。しかし、ロシア軍に短期間でも占領されると何が起きるのかを、ブチャ虐殺は如実に示したのである。
記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。