1970年代に入ると、知識人は首相や官房長官のブレーンとしての役割を担い、政策立案などの過程に関与する傾向を強めて行った[中曽根康弘首相(左)に、首相の私的諮問期間「平和問題研究会」の中間報告書を手渡す高坂正堯座長=1984年3月14日、東京・国会内](C)時事

 1970年代に入るや否や、論壇の凋落を指摘する声が相次いだ。実際に『中央公論』は1971年以降購買数を激減させ、70年代後半には他誌も含めて総合雑誌という媒体が恒常的に低迷するようになる。前稿では論壇における象徴闘争を通して人間関係の分断と固定化――「現実主義」者の浮上――が進み始めた様子を捉えたが、論壇という主戦場の沈滞はそこにいかなる影響を及ぼしたのかを考えてみよう。

新たな結節点としての「政策科学研究会(PSR)」

 ちょうどこの時期に、内閣調査室の志垣民郎は知識人の再結集を図っていた。その舞台として志垣が設けたのが、1971年5月に始まる「政策科学研究会(PSR: Policy Science Research)」であった。PSRは月に一度の頻度で開かれた「国家の政策を考える勉強会」であり、学者側では香山健一が幹事を担い、山崎正和、高坂正堯、公文俊平、中嶋嶺雄、黒川紀章などが初期メンバーとして名を連ねた。1972年6月には、アメリカから帰国して間もない佐藤誠三郎もここに加わった。PSRに錚々たるメンバーが集ったことで、志垣は「これらの優秀な人々がいれば、日本の将来は大丈夫だ」と感じ、1978年の引退へと心を固めたようである。その後も、1997年には北岡伸一、2003年には五百旗頭真、他にも複数名が加わっており、同研究会は2018年頃まで続けられることになる。

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