1970年代に入るや否や、論壇の凋落を指摘する声が相次いだ。実際に『中央公論』は1971年以降購買数を激減させ、70年代後半には他誌も含めて総合雑誌という媒体が恒常的に低迷するようになる。前稿では論壇における象徴闘争を通して人間関係の分断と固定化――「現実主義」者の浮上――が進み始めた様子を捉えたが、論壇という主戦場の沈滞はそこにいかなる影響を及ぼしたのかを考えてみよう。
新たな結節点としての「政策科学研究会(PSR)」
ちょうどこの時期に、内閣調査室の志垣民郎は知識人の再結集を図っていた。その舞台として志垣が設けたのが、1971年5月に始まる「政策科学研究会(PSR: Policy Science Research)」であった。PSRは月に一度の頻度で開かれた「国家の政策を考える勉強会」であり、学者側では香山健一が幹事を担い、山崎正和、高坂正堯、公文俊平、中嶋嶺雄、黒川紀章などが初期メンバーとして名を連ねた。1972年6月には、アメリカから帰国して間もない佐藤誠三郎もここに加わった。PSRに錚々たるメンバーが集ったことで、志垣は「これらの優秀な人々がいれば、日本の将来は大丈夫だ」と感じ、1978年の引退へと心を固めたようである。その後も、1997年には北岡伸一、2003年には五百旗頭真、他にも複数名が加わっており、同研究会は2018年頃まで続けられることになる。
PSRが生み出した人間関係は決して小さなものではない。その最たるものとして、山崎正和と佐藤誠三郎の関係があげられよう。ふたりはPSRで初めて出会って意気投合したことで、山崎は佐藤にサントリー学芸賞の審査員を依頼したり、反対に佐藤は山崎に笹川平和財団を紹介したり、双方が相手の力量を認めて引き出し合う関係になったという。この二者関係のほかにも、『文藝春秋』に「日本共産党『民主連合政府綱領』批判」(1974年)や「日本の自殺」(1975年)などを寄稿した匿名の学者集団「グループ1984年」もPSRのメンバーが深く関与したものであった。グループ1984年の中心人物は香山健一で、出来上がった原稿を『文藝春秋』編集者に手渡したのは山崎正和であり、彼らに加えて公文俊平や佐藤誠三郎も関わっていたようだと、当時『文藝春秋』の編集長を務めた田中健五は回顧している。
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