第8回 ブレジネフ 帝国の大成者(後編)
3. 帝国の成熟
政治の名手
権力の座についた最初の3年間、ブレジネフは謙虚であったという1。だが、次第にそうではなくなった。実際のところ彼は、自分の権威を高めることを求めていた。「指導者には権威が必要だ、助けてほしい」と彼は狭い仲間内で語った2。指導者が権威をもつことが体制の安定につながると考えていたのだろう。1966年に政治局と書記長という名称を復活させたのも同じ発想による。この改称案について提起した3月17日の書記会議でブレジネフは、書記長という名称が「党内でどう受け止められるか、われらの党最高機関のプレステージを強めるかどうか、自分には結果が気になる」と述べている3。
権威を表現するための形式を重んじるのが、ブレジネフの特徴であった。彼は片腕のポドゴルヌイに、首都の社会活動家との会合で、自分の発言中の適当なタイミングで立つように頼んだという。そうすれば会場全体が然るべきときに起立して、拍手できるからというのが理由であった。「もしかしたら、これはよくないことかもしれない、だが必要なんだ、そうするべきなんだ」とブレジネフはつけ加えたという。ブレジネフはまた、党大会において自分以外の政治局員は発言しないように求めた。自分が政治局を代表して中央委報告を行なうので、他のものは発言しなくてもよいはずだというのである。1966年の第23回党大会では同僚たちはしぶしぶこれにしたがい、1971年の第24回党大会ではすでに完全な規範となった。ブレジネフは同僚たちの出張も規制するようになった。閣僚会議第一副議長また政治局員として各地を飛び回っていたマーズロフは、あるときブレジネフから「どうして君はケメロヴォに行ったのに僕に何もいわなかったんだ」と咎められた。ブレジネフは出張を事前の許可制に変えた。政治局員のなかには反対するものもいたが、ブレジネフは自分の意見を通すことができた。というのは彼は政治局ではなく書記局に依拠するようになったからである。ブレジネフはそこでスースロフ、キリレンコ、ウスチーノフといった書記たちと事前に合意を取り付けていた4。
異議を唱えるものや邪魔になったものは、権限のない職務に移された。畜産の実態について粉飾された統計ではなく実際の数字を挙げ、ブレジネフの後援する農業大臣を非難したシェレーピンは、1967年に中央委書記から全ソ連労働組合中央評議会議長にされた5。 KGB(国家保安委員会)内で「たまたま権力の座についただけの人物」ブレジネフへの不満が高まっているという情報が本人に伝わった結果、KGB議長セミチャスヌイも同年にウクライナ共和国閣僚会議第一副議長に配置換えされた。ポドゴルヌイの諫言だけには耳を傾けるという状況が長く続いたが、コスイギンが占める閣僚会議議長(首相)ポストにブレジネフが関心を示したことがきっかけで状況は変わった。ポドゴルヌイは、そもそもフルシチョフが第一書記と首相を兼任したことをわれわれは批判したではないか、それに首相職は激務であるといってブレジネフを思いとどまらせた。だが、ブレジネフは今度はポドゴルヌイの占める最高会議幹部会議長ポストに狙いをつけ、裏工作の才能を存分に発揮した。彼はまず、1976年の第25回党大会に向けた代議員選挙において、ポドゴルヌイが選出されるハリコフ州党組織で650票中250票が反対票となるように仕組んだ。こうして彼の権威を落とした上で、1977年に辞任に追い込んだ6。
これらの例に見るように、ブレジネフはスターリンのようなテロルや、フルシチョフのような露骨な降格ではなく、高位ではあるが実質的な権力のないポストへの配置換えによって、政敵を無力化した。引退させる場合でも名誉や生活水準は保てるようにした。フルシチョフにも年金と別荘を保障し、クレムリンの食堂と中央委員専用の診療所の利用を認めた7。
ブレジネフはことを荒立てることを避けた。スターリン批判の停止が必要だとは認めたが、彼の名誉回復をことさらに喧伝しようとは考えなかった。1969年12月、スターリン生誕90周年記念論文を発表するかどうかが政治局で問題となると、スースロフをはじめ、領袖の功績を正当に評価すべきとの声があいついだ。ヴォルゴグラードをスターリングラードに戻せという意見すら出た。ブレジネフはスターリンの功績を評価する「穏やかなトーン」の論文を発表するとして議論をまとめ、ヴォルゴグラードの再改称は行なわなかった8。
彼は読むことも書くことも好きではなかったが、文筆家としての権威を求めた。ゴーストライターに書かせた自伝三部作は、1980年に文学部門でレーニン賞を受賞した。クレムリンでの授賞式はテレビで中継された。大部数が刷られ、ブレジネフは多額の印税を得た9。
ブレジネフは仕事の鬼ではなかった。1966年の第23回党大会に向けて、中央委員会報告の準備のためにいっしょに仕事をしたシェレーピンによれば、彼の平日は次のように過ぎた。午前10時起床。11時朝食、12時から午後2時まで資料の報告を聞く。2時から3時まで昼食。5時まで睡眠。それからお茶を飲み、狩猟に出る。9時から10時頃に戻り、夕食。深夜1時、ときに2時まで映画鑑賞。ちなみにイデオロギー指導を仕切ったスースロフは、午前8時59分きっかりに職場に現れ、午後5時59分きっかりに職場から去った10。
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