第9回 アンドロポフ 帝国の矯正者(前編)

執筆者:池田嘉郎2024年9月29日
2014年に発行されたアンドロポフを記念した切手

「舞台でソ連社会を批判 新しい国家像を模索 演出家のリュビーモフ氏 劇場前に長い列」。『朝日新聞』1977年11月11日付け朝刊の国際面に、このような見出しの大きな記事が掲載された1。タガンカ劇場首席演出家リュビーモフ――レーニンの葬式で頬を赤くしていたユーリー――は、検閲に苦しみながらもソ連で自由な表現を追求する芸術家として、いまや国際的に有名になっていた。ソ連指導部はユーリーの発言を報じる西側メディアの内容に神経を尖らせ、あいかわらず検閲で彼を苦しめ、外国公演の許可も簡単には出さなかった。

 それでも彼が活動を続けられた一つの理由は、治安取り締まりの責任者が、世間に人気のある芸術家を無暗に弾圧しても騒ぎになるだけだと考えたからである。その責任者はKGB(国家保安委員会)議長のアンドロポフである。1981年、社会からの疎外感を歌ったシンガーソングライターで、タガンカ劇場の主力役者であったヴィソツキーの一周忌に、ユーリーは記念の夕べを開こうとした。このときアンドロポフは、「不健全な騒ぎ」が起こる恐れがあると、党中央委員会に当初警告を送った。だが、ユーリーが彼に援助を求めたことで、2人の電話対談が実現した。アンドロポフは、群衆が殺到して圧死することがあってはならないとユーリーに語った。「とにかくスキャンダルが起きないようにあらゆる手をうってほしい。なぜならば3つの要素、つまりタガンカ、ヴィソツキー、あなたの結合は、極めて危険な結合なのだから」とKGB議長はいい、「できますか?」と畳みかけた。ユーリーが「できます」と答え、ヴィソツキーの夕べは実現した。

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