アイルランド出身の詩人が「らせん訳」で引き出す「百人一首」の深み

ピーター・J・マクミラン『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)

執筆者:渡辺祐真2024年10月24日
千年前の日本語だけでは聞こえなかったであろう、作品の新しい音色が多彩に鳴り響いている (C)ykokamoto/stock.adobe.com

 浮世絵のように、外国の目利きを通じて日本文化の素晴しさが再発見・再評価されることがしばしばある。このたび刊行された『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』も、そのような流れの一つに位置づけられるかもしれない。

 著者はアイルランド出身の詩人・翻訳家のピーター・J・マクミランさん。2024年11月期のNHK100分de名著「百人一首」の指南役を務めるなど、日本古典の魅力を内外に発信している。新進気鋭の書評家・渡辺祐真さんが、その読みどころを紹介する。

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「らせん訳」が切り拓く新たな可能性

 1920年代から30年代にかけてに、イギリス人の東洋学者アーサー・ウェイリーが『源氏物語』を翻訳した。その典雅で香り高い名訳は、今なお読み継がれているほどだ。すると物好きな人がいるもので、この英訳を再び日本語に訳す者が現れた。しかも2組も!

 だが日本人からすれば、原文か、せめて普通の現代語訳を読めばいいじゃないか、と思うかもしれない。こうした再翻訳の意義はどこにあるのだろうか。

 実際にその翻訳を行った毬矢まりえと森山恵は、「らせん訳」という言葉を用いて説明している。2人は、ウェイリーが『源氏』を英訳したとき、きっと『源氏』をシェイクスピアや聖書といった西洋文学・文化と響かせ合いながら翻訳しただろうと考えた。そこで、そんな多層世界を生かすような翻訳にしたいと思うようになった。果たして、実際に翻訳してみると、出来上がったのはただの戻し作業ではなかった。たっぷりと異文化や遥かな時間を吸い込んで、新しい可能性に開かれた翻訳になっていたのだ。ぐるりと戻りつつも飛翔する様子から、2人はこれを「らせん訳」と名付けた。

 確かに二人の翻訳には日本と西洋の文化が深く息づいている。その結果、千年前の日本語だけでは聞こえなかったであろう、作品の新しい音色が多彩に鳴り響いているのだ。

古今東西の視点で語る「百人一首」の魅力

 そうした作品の可能性を二重三重に広げる豊かな「らせん訳」は他にもある。それが、ピーター・J・マクミランによる『謎とき百人一首——和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)だ。

 著者はアイルランド出身で、30年以上日本に暮らしながら、日本文学の翻訳や研究、果ては版画制作まで。中でも「百人一首」の翻訳はライフワークであり、今回で実に3回目の翻訳になる。

 本書には全百首の英訳、そしてその日本語訳(まさにらせん訳!)が掲載されているのはもちろん、翻訳から浮かび上がる歌の魅力、現代の研究や価値観による歌の鑑賞、そしてかるたや浮世絵といった日本文化との接点など、古今東西の視点から語られる百人一首の魅力が目白押しだ。

 例えば、掛詞を論じるために「不思議の国のアリス」の例(「tale」と「tail」という同音異義語を勘違いするユーモラスな場面)を引き、流罪の歌からジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』を連想し、大江千里の歌に西洋詩の論理性を見出し、掛詞を英訳するために工夫を重ね、東西の季節感の違いから歌の新しい魅力を引き出し、「あはれ」という多義的な言葉に様々な英語をあてはめ、百人一首のジェンダーのアンバランスさを鋭く指摘し……。もちろん日本文学としての基本的な解説も抜かりない。

言語の違いが浮き彫りにする「自然観」

 中でも最も惹かれたのは、猿丸太夫による「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」の主語をめぐる思索と翻訳。

「奥山に紅葉踏み分け」たのは、いったい誰だろうか? 山に入って行った「私」か、それとも「鹿」か。言われてみるとどちらとも取れる。というか、どちらでも取れるのが、主語を曖昧にする日本語の特徴なのだ。著者は「I」が必ず中心となる西洋の詩(特にデカルトが「我」を強調した近代以降)と対比しながら、「I」が解け、自然と一体化する日本の自然観を指摘する。更にその感覚を見事な英訳にしているので、ぜひ実際に見ていただきたい。

 そしてこの鋭くも柔らかい感性が、本書の基底を成している。というのも、本書には百人一首自体の話だけではなく、著者の個人的な体験も綴られている。百人一首からひろがる緩やかな随筆といった趣だ。ドナルド・キーンや加藤アイリーンとの思い出、アイルランドと日本における日照時間の受け止め方の違いなど、豊かなものばかりで、それがこの翻訳や読解を形作っているのだと了解されるに違いない。

 歌を解釈するにはただ研究を重ねるだけではなく、いかに生きるかも肝要だ。実際に日本の自然や文化を生き、人々と交流をつづける著者だからこそ、百人一首の深みに到達できているのだろう。その柔らかな凄みをぜひ堪能してほしい。

ピーター・J・マクミラン『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)
  1. ◎渡辺祐真/スケザネ(わたなべ・すけざね)

1992年生まれ。東京都出身。ゲーム会社でシナリオライターとして勤務する傍ら、2021年から文筆家、書評家、書評系YouTuberとして活動を開始。2023年に退社し専業の書評家・文筆家となる。毎日新聞「文芸時評」、共同通信社「見聞録」などを担当。著書に『物語のカギ: 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』(笠間書院)、編著に『季刊アンソロジスト』(田畑書店)などがある。

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