第11回 ゴルバチョフ 帝国の破壊者(前編)
2024年11月24日

ゴルバチョフ(1988年撮影、時事通信フォト)
1988年5月、タガンカ劇場の元総監督ユーリー・リュビーモフは、4年ぶりに祖国の地を踏んだ。ソ連市民権は剥奪されたままであったが、特別に短期間の入国が許可されたのである。異例な措置を認めたのは1985年3月に成立したゴルバチョフ政権であった。ゴルバチョフが進めるペレストロイカと呼ばれる改革によって、ソ連は目まぐるしく変わっていった。リュビーモフは帰国時に、6年間封印されていた『ボリス・ゴドゥノフ』をかけることができたのだが、権力のからくりを暴き立てるこの芝居について、もはや時代遅れとなった、現実のほうが先に進んでいると評されるほどであった1。
ペレストロイカは止まらず、いつしか破局(カタストロフ)をもじってカタストロイカと呼ばれるまでになった2。ゴルバチョフはどのようにしてこの過程を開始したのか。どのようにして彼は帝国の破壊者となったのだろうか。
1. スターヴロポリからモスクワへ
コルホーズの青年
ゴルバチョフの故郷である北カフカースは、ソ連時代の通常の行政単位である「州」ではなく、周縁部や辺境といった意味合いをもつ「地方」(クライ)と呼ばれた(1943年からはスターヴロポリ地方)。18世紀後半、北カフカースは南下政策を進めるエカチェリーナ二世によって、ロシア帝国の支配下に入れられた。南方の防備を固めるために、この地には多くの農民が強制的に移住させられ、あるいは土地を求めて移り住んだ。ゴルバチョフの祖先も、父方はロシア中央部のヴォロネジ県、母方はウクライナのチェルニゴフ県から移住してきた農民である。ロシア中央部から離れた地にあって、北カフカースの農民は自立心が強かった3。
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