2024年11月11日、衆議院本会議の首相指名選挙で投開票を終えた石破茂首相(C)EPA=時事

 私たちは日々、膨大な量の情報にさらされている。刺激に反応し一喜一憂することは避けがたい。その一喜一憂が新たな情報となって拡散していく。次々に事件事故は起きるから、私たちはおしゃべりをやめられない。

 宰相・石破茂の誕生も、そうした情報の一つに利用されている。自民党総裁選を面白おかしく報道した直後、戦後最短で衆院解散総選挙になだれ込むと、マスコミは一斉に各党勝敗予想に明け暮れたが、こうした報道姿勢に吐き気をもよおしたのは、筆者だけだろうか。「政治とカネ」のネガティブ・キャンペーンをこれだけ張れば、世論が政権選択をしているのではなく、マスコミが世論操作をしているに等しい。

 だが筆者はここで、単純なマスコミ批判をしたいのではない。こうした饒舌と喧騒にもかかわらず、現在の日本国はどこか暗く、閉塞していることを指摘したいのである。戦前の昭和8年(1933)、女学生二人が三原山噴火口に投身自殺して以降、自殺ブームが到来する。この年はドイツでヒトラー政権が誕生し、また日本が国際連盟を脱退した年でもあった。英米中心の国際秩序が限界に達しつつあるとき、同時に国内では不安の兆しが現れ、何かが瓦解しはじめたのである。だから私たちは一つひとつの事件に対し、饒舌にコメントしているだけでは済まされない。複数の事件の背後に共通する「時代感覚」に敏感になる必要がある。いったい、私たちは今、どんな時代を生きているのだろうか。
宰相・石破茂を論じるということは、畢竟、時代を論じることに、つながらなければならない。

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