ルカシェンコの強権政治自体は一貫していても、国内における求心力や欧米のベラルーシへの風当たりは、国際情勢によって変化してきた[大統領選の投票後、メディアの取材に答えるルカシェンコ大統領=2025年1月26日、ベラルーシ・ミンスク](C)AFP=時事

同床異夢だったロシア・ベラルーシ連合国家

 ルカシェンコ氏が君臨しているベラルーシという国の軌跡を考える上で、やはり最重要な要因がロシアとの関係である。ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人は、東スラヴ系の3民族として、歴史・言語・文化などの面で近い関係にある。しかし、ソ連解体後、ウクライナがほぼ一貫してロシアと一線を画した独自の国造りを進めてきたのに対し、ベラルーシは対ロシア統合路線を歩み、対照的であった。

 1999年12月、ロシアとベラルーシは「連合国家」を創設する旨の条約を結び、これに沿って経済・国家統合を進めていくことになった。しかし、この条約は特異な状況下で成立したものだった。当時のロシアでは、健康問題を抱えていたボリス・エリツィン大統領の政権が低空飛行を続け、どうにかして国民の歓心を買い、あわよくばエリツィン政権の延命にも繋げようということで、ベラルーシとの国家統合が発案された。対するベラルーシの側では、当時まだ40代でエネルギッシュだったルカシェンコ大統領が、小国のトップの座には飽き足らず、ロシア・ベラルーシ統一国家を樹立して自らがクレムリンの玉座に収まるという野望をたぎらせ、対ロシア統合にのめり込んでいた。お互いがそれぞれに異なる政治的な打算で動いていたのである。

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